Posted on 12/27/2015 at 04:27, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『山上の垂訓』(ヨベルの年 第16週)(2015.12.17)

 

この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。(マタイ福音書5章1-2節)

    • はじめに…クリスマスが過ぎ、いよいよ主の年2016年に向けて、歴史の“聖なる扉”が開かれようとしています。主の導きの中、来年早々に聖地巡礼の旅に出かけることになった訳ですが、出発までの3回の主日、その訪問地にちなんだ御言葉からともに聴きたいと願っています。
    • 観光ではなく信仰… かつて隠れキリシタンについて調べていたことがあるのですが、その取材のために長崎の「日本二十六聖人記念館」に出かけました。そこで結城了悟館長(当時)から言われた言葉“信仰と観光は違います”。それ以来、この言葉は私の座右の銘となっています。ですから今回の旅行は観光ではなく、主の御言葉を聴く信仰の歩み出しなのです。
    • 座して語られたイエス様…訪問地のひとつに「山上の垂訓教会」があります。イエス様が山上の垂訓を語られたガリラヤ湖畔の小高い丘に建てられた教会です。ここにイエス様が座られて、口を開かれたのです。ひと昔前の日本の家庭でも、父親が家族に大切な話をする際に、座って話をしたように、イエス様も座って話し出されたのです。
    • 開口一番…開口一番、「心の貧しい者は幸いです」(「心底貧しい人たちは神からの力がある」・本田哲郎訳)(マタイ福音書5章3節)と語られました。〈心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものをも持っていない人、お金もない、地位もない、体も弱い、知識もない。己にたのむ何もないがゆえに、ひたすら謙遜に、神の前に頭を垂れている人たち〉(三浦綾子著『新約聖書入門』より引用)です。そして「悲しむ者は幸い、柔和な人は幸い…」と、イエス様は“八福の教え”を、絶対的な権威をもって語られました。語られるだけではなく、主は、その語った真実を生き抜かれました。座(坐)して語られる者の責任を完結されました。罪を犯さざるを得ない私たちと連座され、私たちの罪を負い、身代わりとなって十字架の裁きを受けられたのです。
  • 結び…残すところ2015年も今日を含めて5日。一日いちにち、主の語られる御言葉に耳を傾け、御言葉を生きる皆さんであるよう、祝福して祈ります。

 

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