Posted on 10/02/2017 at 21:38, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『大贖罪日・仮庵の祭』(2017.10.1)

 

見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(Ⅱコリント4章18節)

  • はじめに…先週、私たちの知り合いのTさん(享年70)が、11年間の闘病生活の末、天に召されました。関わりは一昨年のアドベント(待降節)の時期からでしたが、見事な地上での生涯の最期でした。今日のみことばは、Tさんの遺して逝ったみことばのうちのひとつです。(他に、マタイ6章30節、ローマ14章8節、詩篇23篇1-4節
  • 平和の祈り…みことばとともに、好きな言葉として「フランシスコの平和の祈り」を挙げていました。わたしをあなたの平和の道具(channel=導管・水路・溝)としてお使いください/憎しみのあるところに愛を/いさかいのあるところにゆるしを/分裂のあるところに一致を/疑惑のあるところに信仰を/誤っているところに真理を/絶望のあるところに希望を/闇に光を/悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください/慰められるよりは慰めることを/理解されるよりは理解することを/愛されるよりは愛することをわたしが求めますように/わたしたちは与えるから受け/ゆるすからゆるされ/自分を捨てて死に/永遠のいのちをいただくのですから
  • 大贖罪日、仮庵の祭…ユダヤ教では、モーセの幕屋の時代から大祭司が1年に1度、ユダヤ暦の第7月(チスリ)の10日、贖いのためにほふった動物の血を携えて、すべての民の罪の贖いを主(創造主なる神様)に祈りました。その日、ユダヤの民は皆、断食をして贖いを大祭司に託しました。そしてその5日後の15日、つまり十五夜の満月の日(今年は10月4日の日没にあたる)、仮庵の祭が行なわれました。祭に参加できることは、自分が神様から選ばれた選民としてユダヤ民族の一員であるというアイデンティティを確認する機会でした。ただ罪人の烙印を押された(罪人扱いされた)者はこれに加わることができませんでした。これは創造主なる神の御心とは違っていたのです。その縄目を解いた方が主イエス様でした。まさに“平和の主”“平和の道具”として自らを父なる神に委ね切り、聖霊を私たち一人ひとりの内側に注がれたのです。
  • 結び…新しい月、主から新しいゆるがない霊(詩篇51篇10節)を頂き、平和を創りだす者(マタイ5章9節)、闇を照らす者として生きることができるよう、祈ります。

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