Posted on 03/05/2023 at 01:12, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『ひとりの預言者』(新約に引用されている旧約 その38)(2023.2.26)

あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない(申命記18章15節) /モーセはこう言いました『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい』 (使徒の働き3章22節)

◆はじめに…今、私が勤めるデイサービスは、3月末のサービス終了に向けて、利用者さんの次の行先への引継ぎをしています。利用最終日には、別れを惜しみつつ思い出の品として記念写真と根付を手渡しています。サービス利用期間の長い方で10年、短い方で1、2年、その存在に癒されたり、煩わされたり、悲喜こもごもでしたが、心の中で一人ひとりの祝福を祈りつつ、送り出しています。

◆聞いて行う…今日のテキストの主題は、主の声を民の代表として聞いた者、すなわち預言者の告げることを、民が聞いて行うことが、しあわせであり、祝福の道だということです。そのことをモーセはカナンの地を前にして語り、ペテロはイエス様の再臨、新天新地を望みつつ語りました。そのしるしとして、足の不自由な者が立ち、歩き、跳ね、賛美し、宮へ入るという出来事が起こされました。

◆私のようなひとりの預言者…カナンの地を前にしてモーセが語った「私のような(私を立てられたように)ひとりの預言者を起こされる」は、この文脈では後継者のヨシュアを指していると解釈するのが自然です。実際、モーセの死後、カナンの地に入ったイスラエルの民を導いたのはヨシュアでしたし、ヨシュアは主の声を聞いて(主からことばを預かり)、それに従って民を導きました。ただし、申命記の最終章には「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった」(申命記34章10節)とあることから、霊的側面(主との親密な関係)においてはモーセに遠く及ばなかったと言えます。モーセ自身も、その深い潜在意識において待ち望んでいた真の預言者の到来は、イエス様まで待たなければなりませんでした。

◆預言の成就…預言の成就としてイエス様がこの世に遣わされました。預言(神のことば)は主のみこころです。主のみこころは、私たちが生きること、しあわせになること、祝福を受けることです。私たちの「いのちの君(=源)」はイエス様です。イエス様だけが救い=神様との親密な関係を回復させて下さる方なのです。主イエス様ご自身が、私たちの相続地(遺産・贈与)であり、すでに私たちにその新天新地の継承(引継ぎ)が約束されています。

◆結び…私たち一人ひとりを祝福して下さっている主イエス様に感謝します。

Posted on 02/20/2023 at 20:13, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『罪を取り除かれるイエス様』(新約に引用されている旧約 その37)(2023.2.19)

そして証人の手が最初に彼の上にあり、あなたは殺し、民の手は最後になる。そしてあなたは彼らの中から悪人を取り除かなければならない(申命記17章7節/七十人訳の日本語訳) /外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい (①コリント5章13節)

◆はじめに…今年になって背中に出来たアテローマが少しずつ大きくなって痛みだし、昨日患部の切開術を受けました。アテローマは、本来、体外に排出されるはずの古い角質や皮脂が、皮膚内部に形成された袋の中に溜まってしまうものです。 “膿を出す”ということわざがありますが、化膿した部分を切開して膿をすべて取り除き、蓄積された悪い習慣や弊害などを根本から取り除き、本来の姿に回復すること、それが今日のみことばのテーマです。

◆悪(罪)を除く…今日のテキストにおける悪い習慣や弊害は、偶像崇拝・不品行です。ただそれを形式(律法)的に裁き、懲らしめ、最終的に死刑に処するといったことではありません。軽率な告発を思いとどまらせ、悔い改め(人生のやり直し)の機会をつくることが、主ご自身の本来の目的です。そのため裁く者も、罪を裁かれる者も、主の前で慎み深く、かつ、責任を持つことが求められます。旧約時代、偶像崇拝は極刑(石打ち刑)が定められていました。ですから最初の目撃(証言)者が、最初に石を投げることになっていました。ですから最も重い責任を負わされていた訳です。

◆肉を滅ぼす…事情は、パウロの生きた時代も同じでした。ただ、コリントの教会は世の流れに抗うことをせず、むしろ偶像崇拝の世に同調し、不品行が教会内部にもまん延し、放任状態だったようです。「(…)あなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかった」(①コリント5章2節)とパウロはコリント教会の人たちの姿を指摘し、「肉が滅ぼされるためにサタン(世)に引き渡した」(同5節)と、裁きを宣告しています。しかし、これは単に教会から破門(除名)することが目的ではなく、「彼の霊が主の日に救われるため」(同)と、世の荒波の中で病、苦難、生死の境(すなわち“肉の滅び”体験)を経験することで、結果として悔い改めと救いに与るためなのだ、そうパウロは語ります。

◆罪のない者が最初に石を投げよ…イエス様も、裁きを命じます。「罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8章7節)。このイエス様の律法に基づきながらも律法を超え、愛の律法の本質を貫くみことばによって、裁く者には自らを省みさせ、裁かれる者には新しい人生のやり直しの機会を作りました。

◆結び…私たち一人ひとりの罪を取り除いてくださる主イエス様に感謝します。

Posted on 02/13/2023 at 21:14, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『人はパンだけで生きるのではない』(新約に引用されている旧約 その36)(2023.2.12)

それで主は、(…)あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということをあなたにわからせるためであった(申命記8章3節) /イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある」 (マタイ福音書4章4節)

◆はじめに…先週2月6日、トルコ南東部(シリアとの国境付近)で大地震が発生し、現在約2万5千人の死亡者が出ています。生存率が大幅に下がる72時間を過ぎても、各国から入った救助隊によって救出され一命をとりとめる人々もあります。なかでも最大規模の450人を派遣したイスラエル軍の部隊は7日以降、カフラマンマラシュで19人を救出し、9~10日には約40時間かけて、住宅から9歳の少年を含む家族3人を救出することに成功したと地元メディアが報じています。今回の大地震で、宗教の枠を超えて、被災した人々を救い出すために間髪入れず動いたイスラエルの対応に敬意を表します。

◆救いの熱情…今回の大地震が発生したトルコ南東部は、使徒パウロの生まれ故郷タルソを含む地域であり、また、パウロの異邦人伝道の拠点となったアンテオケもすぐ近くです。約2千年前、聖霊の感動に突き動かされ、「何としても救いたい!」という一心で、ユダヤ教の枠を超えて異邦人伝道へ赴いた、そのパウロのパッションと、イスラエルの救助隊の「助けたい!」という熱情が時代を越えて重なって響きます。

◆マナ…今日のテキストは“民のつぶやきにマナをもって応えられる神”“サタンの誘惑を、みことばでもって退けられるイエス様”です。神様はイスラエルの民の荒野の40年を導かれました。飢えとともにマナを与えられました。つぶやきに変えて主を賛美して生きることを学ばせるためでした。主を忘れることのないようにするためでした。そして主を心に据えて生きるようにするためでした。

◆神のことば(いのちのパン)…イエス様は荒野でサタンの誘惑に遭い、みことばで誘惑を退けられました。最初の人アダムとエバが蛇(サタン)に唆され、その声に従ったため全人類に入った罪(死)を、みことばによって退けられました。「石にパンになるよう命じたら」というサタンの誘惑に「“パンがなくとも人は生きられる。(もしなければ、)神はそのお口から出る言葉のひとつびとつで(パンを造って、)人を生かしてくださる”と(聖書に)書いてある」(塚本訳)と。

◆結び…私たちの霊・魂・身体をこの世の権威・科学・経済で揺るがし、破壊しようとするこの世の支配者の策略から私たちを救い出してくださる主に感謝。

Posted on 02/08/2023 at 18:47, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『シェマー イスラエル』(新約に引用されている旧約 その35)(2023.2.5)

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。(申命記6章4節) /イエスは答えられた。「一番たいせつなのは、これです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である』」 (マルコ福音書12章29節)

◆はじめに…昨年来、強盗詐欺事件が連続して発生し、被害総額は60億円の上るとも。日本社会を闇が覆っています。指示役はフィリピンの収容施設の中から、SNSで闇バイトを募集して、操っていたと報じられています。この闇の世に光を遣わされるのは天地創造の神様です。

◆神(エロヒーム)…今日のテキストの箇所は、いわゆる“シェマー”と呼ばれる箇所です。この箇所を正統派ユダヤ教徒は、朝夕に朗唱します。ここに記されている「神」はヘブル語では「エロヒーム」で、複数形で表されています。「それではユダヤ教の神様は多神教?」というような疑問が生じます。キリスト教神学の解釈では“三位一体の神”ということなります。この複数形で表される神様は“多様性”を持ったお方であり、“関係性”を重んじるお方だということです。

◆主はただひとり(エハド)…その多様性と関係性を大切にされる主は、ただひとり(唯一)だと、みことばは告げています。ヘブル語で「エハド」です。韓国語は主を“하나님(一様!)”と表現していて、“唯一なる主”をもっとも良く言い表しています。ただこの「エハド」は単に唯一なる主、神々に対する一神を意味するだけではなく、ことばと行いで“一貫性”を持って私たちと永遠に関わられる方だという意味を持った語です(Janzen.J.G)。この「エハド」はヘブル語訳の新約聖書のヨハネ17章21節で使われています。「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つ(エハド)となるためです」

◆主を愛し隣人を愛せ…私たちの主なる神様は、違いを認め(多様性)、自我を超越し(関係性)、いつまでも共におられる方(一貫性)です。その似姿として私たちは造られ、生かされています(創世記1章26-27節、エペソ1章4-5節)。主の変わることのない愛に感謝し、その愛に力を受け、聖霊の感動(あわれみの心)で隣人に接し、永遠のいのちを生きられますように(ルカ10章25-37節参照)。

◆結び…最後にイエス様が教えて下さったシェマーを朗唱します。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12章29-31節)

Posted on 01/29/2023 at 21:52, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『らくだが針の穴を通る』(新約に引用されている旧約 その34)(2023.1.29)

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それはあなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。(申命記5章16節) /戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』 (マルコ福音書10章19節)

◆はじめに…先週、眞津代牧師がかつて教会学校の教師をしていたときの元生徒のYさん(現在、障がい者施設に入所)から、新年のあいさつとクリスマスプレゼントのお礼のお便りが届きました。その文末は「あなたの父と母を敬え」とのみことばで結ばれていました。ものすごく説得力のあるというより、権威ある生きたことば、人格の伴ったことばとして響いてきました。「あなたは、両親を敬っているか」と、私に問いかけてきます。

◆こどもまんなか社会…Yさんが「あなたの父と母を敬え」とのみことばを、確信をもって伝える背後には、いつもYさんの味方であり、居場所であり続け、Yさんを人生の真ん中に立たせ誠心誠意仕えて来られたご両親の存在があります。「こどもまんなか社会」の実現に向け「こども家庭庁」が4月1日に創設されることを、国会でも岸田総理がアピールしていますが、それは岸田総理の発案でも功績でもなく、家庭においても、社会においても、イエス様がこどもを真ん中へ抱き寄せて下さっていることに思いを馳せたいと思います(マルコ9章36-37節)

◆らくだが針の穴を通る(≒にじり口)…今日のテキストの箇所は、富める青年がイエス様に「永遠のいのちを受けるためには、私は何をしたらいいでしょうか」(同10章17節)と質問する文脈の中で、イエス様が語られたところです。そのやり取りの中で「持ち物をぜんぶ売り払い、貧しい人に与えなさい」(同21節)とのイエス様の解答を聞いた青年は、立ち去ってしまいました(同22節)。それでイエス様は「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(同25節) 。シリアの都に入る大きな門の側面に“針の目(穴)”と呼ばれる旅人のための小さな狭い門があることが知られています。つまり人がひとり入るのにやっとの小さな門です。日が落ちると、荷馬車用の大きな門はかんぬきを掛けて閉められてしまうので、荷物を積んだらくだは入れなくなってしまう訳です。荷物を降ろせば、らくだも何とか入れるかも知れない、そんな門です。

◆結び…私たちの背負っている荷物は何でしょうか? 持っている物を一旦、降ろして、何も持たない子どものように、いのちに至る門、イエス様の懐へ。

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