Posted on 12/03/2023 at 10:58, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『心を柔らかくして下さるイエス様』(新約に引用されている旧約 その69)(2023.12.3)

メリバ(=争い)のときのように、荒野のマサ(=試み)の日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない(詩篇95篇8節) /荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない(ヘブル3章8節)

◆はじめに…本主日からアドベント(待降節)となりました。とは言っても今年は変化の目まぐるしい年で、今なお状況に翻弄されています。振り落とされないように必死にイエス様にしがみついているような感じです。向こう岸に渡るために舟に乗り込んだ弟子たちが、大嵐で水をかぶり、イエス様に「先生! おぼれて死にそうです!」(ルカ8章24節)と叫ぶ、その弟子の心境です。

◆アブラハム…例年同様、アドベント第一主日は“信仰の父”アブラハムを想起します。「わたしが示す地へ行きなさい。あなたを大いなる国民とする。すべての民族はあなたによって祝福される」(創世記12章1-3節)との主の約束を信じ、「モリヤの地に行きなさい(…)イサクをわたしにささげなさい」(同22章2節)との最初の約束を反故にするかのような主の御声に従順に従い、生涯、信仰の歩みをまっとうしました(ヘブル11章8、17節)。アブラハムの信仰にならう者として「この人(あなた)もアブラハムの子なのです」(ルカ19章9節)と、イエス様の方から私たちを訪ね、近づいて来て下さいます。

◆試練、苦難…信仰の成長には、試練が伴います。祝福と苦難は隣り合わせです。逆に言えば、試練のあるところには信仰の成長があり、苦難のあるところには祝福があります。試練と苦難を与えることが天の父の目的ではなく、私たちが、イエス様ご自身が試みに会われ、従順を学び、完全な者とされ、とこしえの救いを与える者となった(ヘブル5章8-9節)、その救い主イエス様の愛を心底信じる者となることが目的です。

◆心をかたくなにしない…イスラエルの民は(モーセも含め)、荒野での試練の際、心をかたくな(ヘブル語=激しいこと、ギリシャ語=頑固)にしました。「私たちを渇きで死なせるきか! 主は私たちの中におられるのか!」(出エジプト17章3、7節)と。私たちも困難な出来事に直面すると、感情が激しく動揺し、苛立ち、心が頑なになります。そんな私たちを主は愛の眼差しで見つめ、「わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7章37節)「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる」(マタイ28章20節)、と穏やかに優しく語りかけ、苛立つ感情、張りつめた精神を柔らかくして下さいます。

◆結び…インマヌエルのイエス様を、静かに拝する待降節となるよう、祈ります。

 

Posted on 11/12/2023 at 20:19, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『虚を実に変える祈り』(新約に引用されている旧約 その68)(2023.11.12)

主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。(詩篇94篇11節) /神は、知者の議論を無益だと知っておられる。(①コリント3章20節)

◆はじめに…先週、家内の血液検査および内蔵のエコーを撮るために久留米の病院へ一緒に出掛けました。その結果、内蔵は正常に働いて、血液中のカリウムの数値も服薬で標準値範囲内に収まっており、ひとまず安堵。今後も、服薬と食事療法で健康管理を続けることになります。どうぞお祈りに覚えてください。

◆むなしい、無益…今日のテキストの詩篇94篇は、厚顔無恥な者から抑圧されている者が主に嘆き、救いを求める歌で、①コリント3章は、御霊ではなく肉に属するゆえに、ねたみや争いが絶えないコリント教会の信徒に対して、パウロが噛んで含めるようにしてキリストにある霊的一致の真理を教え諭している手紙と言えます。私たちも、自分の考え、自分の計画がもっとも正しい、他者のそれよりも優っていると考える傾向があります。そんな人の計画がむなしく、知者(だと自負している者)の議論ゆえに巻き起こる争いやねたみが無益(百害あって一利なし)なことを、主は百も承知ですよと、聖書は記しています。

◆実、有益…それでは、何が“実”であり“有益”なのか。それは、人の計画ではなく御霊に“実”(ガラテヤ5章22-23節)があり、知者の議論ではなく神のご計画が、召された人に“有益”(ローマ8章28節)をもたらす、そう、御言葉は語っています。御霊(助け主、とりなし手=パラクレートス)はイエス様が遣わされ、私たちの内に住まわれます(ヨハネ14章16-17節)。そしてイエス様の語られた御言葉を思い起こさせてくださいます(同26節)。聖霊と御言葉に実益があり、その果実を得る方法がイエス様の御名による祈り(霊的呼吸)です。

◆イエス様につながる…イエス様はご自身をぶどうの木、そして私たちをその枝にたとえています。そして枝が木につながっているなら、多くの実を結ぶと約束してくださっています(ヨハネ15章5節)。そして「わたしの名によって求めなさい。そうすれば受ける」(同16章24節)とも。イエス様と霊的につながる、すなわち祈りでつながる時、豊かに実を結びます。どんなに小さな祈りであっても、イエス様の御名によって祈る祈りは、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ偉大な祈りになります。最近はやりのNISA(ニーサ)で地上に積み立てするよりも、イエス様の御名による祈り(感謝と祝福)で天に宝を積み立てることで、人生が祝福に満ちます(①ペテロ3章8-18節)。

◆結び…イエス様にしっかりとつながり、しがみつき、新しい日々を一歩一歩、共に歩んで行けるよう、祈ります。

Posted on 11/05/2023 at 20:34, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『すべての道で』(新約に引用されている旧約 その67)(2023.11.5)

まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。(詩篇91篇11節) /神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる(ルカ4章10節)

◆はじめに…先週、うれしい出来事がありました。「今までずっと、先生たちのことが気になっていました。かつて先生たちに失礼なことをしました。この年になって分かります。お詫びします」と。電話口での震える声から、Nさんが本心から赦しを乞うていることが伝わってきました。自らの過ちを認めて、直接、謝ることは勇気がいることだと思います。聖霊様の導きに感謝します。

◆御霊に導かれて…今日のテキストは、いわゆる「荒野の誘惑」とか「荒野の試み」と呼ばれている箇所です。荒野へ導いたのは御霊ですから、創造主(父なる神様)のみ旨に基づく明確な意図と目的があります。ルカはこの「荒野の試み」の前に、イエス様から人類の始祖アダムへ遡る系図を挿入しています。そこから読み取れるのは、最初の人間アダムの失敗を、第二(最後)のアダムとしてイエス様が、罪人の末裔であるすべての人類の救い主として唯一無二の方だということを伝えています。そのことをサタン(この世の支配者)がアダムを誘惑したように、イエス様を誘惑したものの、そのすべての誘惑に対してイエス様が勝利したことで、裏付けています。

◆三大誘惑…私たちにとっての“荒野”は、私たちがただ一人、祈りと黙想をする場であり、時です。聖なる時であり、聖なる場であると同時に、世俗の考えが襲ってくる場であり、時でもあります。その中で、最も大きなものが①経済問題(パンかみことばか)②政治問題(支配か奉仕か)③宗教問題(贈り物か贈り主か)です。

◆すべての道で…それらの誘惑に対してイエス様は、申命記のみことばをもって、それらの誘惑を退けました。それは“荒野の四十年”でモーセが導く中、イスラエルの民が失敗を繰り返しながら学んだ、主のみことばでした。私たちもこの世の考えが入り込む環境の中にあって、無数の選択肢があり、迷路もあれば、脇道もあります。その分かれ道で、イエス様の語られる一つひとつのみことばに支えられて生きたいと思います。イエス様は道であり、真理であり、いのちです。

◆結び…御使いを遣わして私たちを“すべての道で守られる”と、主は約束してくださっています。聖霊様の導きに従い、みことばに生かされ、神と人に仕え、主に栄光をお返しする新しい月となるよう、祈ります。

Posted on 10/29/2023 at 19:01, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『神の子ども』(新約に引用されている旧約 その66)(2023.10.29)

わたしは言った。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ」(詩篇82篇6節) /イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。あなたがたは神(々)である。』と書いてはありませんか。」(ヨハネ10章34節)

◆はじめに…恵愛園で働き始めてから二週間余りが経ちました。一人ひとりと関わる時間が増す中で、少しずつ利用者さん、職員さんの顔と名前が一致するようになり、それぞれのキャラクター(個性)も見えてきました。これから園で織りなされる出来事の中から、主の御業、御言葉を拾い上げていければと願っています。

◆「障害」は他人事でなく…厚労省の直近の調査によると、国民のおよそ 9.2%が何らかの「障害」を有していると報告されています。後天性の「障害」の方、先天性の方、様々ですが、天地創造以来、一定数の方々が「障害」を持っている事実があります。その意味では「障害」は“個性”であり、別の角度からみるなら、「障害」を持っていない人の“身代わり(代理)”と言えます。その意味で、「障害」は他人事でなく、自分事です。

◆回復より律法優先でなく…今日のテキストは、イエス様が仮庵の祭りや宮きよめの祭りでエルサレムの神殿に上って来られ、病人の癒しの他、裁判の弁護、御言葉の宣べ伝え等、数々の御業をなされましたが、それを快く思わず、殺意を抱くユダヤ人に対して語られたものです。前章の9章では「生まれつきの盲人」の目を開ける癒しをされましたが、その日は安息日でした。ユダヤ人にとって一人の人の回復よりも律法に違反している行為だ、ということが大問題でした。マザーテレサは言いました。「人々が死を迎える時に、『愛された』と感じながらこの世を去ることができるなら、何でもしたい」

◆あなたがたは神(の子)…詩篇82篇3-4節には「弱い者とみなしごのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ」と記されてあります。それが良き指導者(神の子)の務めだと。そしてイエス様はおっしゃいました。「わたしは、良い牧者です」(ヨハネ10章11節a)「わたしと父とは一つです」(同30節)、つまり父なる神から世に遣わされた“神の子”だと。だから父から託された羊のために何でもする、「羊のために命を捨てる」(同11節b)「永遠のいのちを与える」(同28節)「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできない」(同29節)と。

◆結び…あなたのためにいのちを捨てる、あなたに永遠のいのちを与える、わたしの懐にあなたを抱き、だれも奪い去ることはできないと主は言われます。

Posted on 10/22/2023 at 06:58, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『裂かれた唯一のパン』(新約に引用されている旧約 その65)(2023.10.22)

食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、天の穀物を彼らに与えられた(詩篇78篇24節) /私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。(ヨハネ6章31節)

◆はじめに…10月10日から「恵愛園」という障害者支援施設に勤めていますが、昨日21日は開園40周年を記念する「恵愛まつり」というイベントが施設でありました。利用者の方々とその家族、それに中高生ボランティアを含め、多くの地域の方々が参加され大変盛況でした。まつりが、共に同じ地域で暮らす「障害」のある人と、ない人が、自然体で出会う場となっています。

◆物、事、方…今日のテキストは、民の度重なる裏切りにも関わらず、繰り返し赦され、一人のリーダー、ダビデを立てて導かれる主の愛です。その神の愛の出来事の一節がヨハネ6章31節に引用されています。天からマナを降らせ、民の空腹を満たした出来事です。私たち自身も含め、人は「物(もの)」つまり目に見える物質を第一にします。その最たるものが食物です。食べなければ飢えて死んでしまいます。ですから荒野でイスラエルの民は、リーダーのモーセとアロンにつぶやきました。民のつぶやきを聞かれた主は、天からマナを降らせ、民の空腹を満たされました。それはカナンの地に入るまでの40年間、絶えることはありませんでした(出エジプト16章35節参照)。マナを降らせ続け、民を養いつつ、主は、裏切りと赦しの出来事を通し、見放すことなく民との関係を保ち続けられました。

◆マナ…ところで、「マナ」とはいったい何だったのでしょうか? シナイ地方の荒野に「ぎょりゅう(御柳)」と呼ばれる木が生えています。樹皮に付着したビーズ玉のようなシロップ状の液が結晶化して地面に落ちるそうですが、これは昆虫が分泌する余剰炭水化物だと言われています。これが「マナ」の正体です。この「ぎょりゅうの木(新改訳では「柳の木」)」ですが、アブラハムがベエル・シェバ(誓いの井戸の意)に平和の契約、約束の成就の証しとして植え、傍らで主に祈った記事として創世記21章33節に記されてあります。続く22章で約束の子イサクの奉献の出来事になります。

◆裂かれた唯一のパン…ぎょりゅうの木に付いたマナは、十字架にお掛かりになられるイエス様の予表です。「神のパンは、いのちを与えるもの(=方)だからです」イエス様はご自身の身体を十字架で裂かれ、私たち一人ひとりに分けられたのです。

◆結び…イエス様の語られるひと言ひと言の言葉を味わい血肉化して生きる一週間であるよう、祈ります。

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