Posted on 11/12/2017 at 20:54, by matsumoto

『敵を愛し、祈る』(2017.11.12)

 

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ福音書5章44節)

  • はじめに…先主日、M姉が、召天されたご主人のT兄が生前に描かれた絵(複写)を教会にプレゼントして下さいました。小さな花の絵と、エマオの途上を彷彿させる木立の小路の絵です。それらの絵から、イエス様のいつくしみのみこころと、復活の希望に向かって生きよ、というメッセージが伝わってきます。
  • 金を愛す…トランプ米大統領がアジア歴訪中ですが、武器商人のセールス外交のように見えます。北朝鮮の脅威を煽り、アメリカ製の武器を売りつけ、背後では“平和”を演出する。羊の皮を被ったオオカミのように感じます(エレミヤ6章14節参照)。敵の存在を利用して人殺しの道具を売りつけ、儲けを得ようとする。“金を愛し、盾突く者を脅す”。まさに「いのちより金」の世界です。事実、武器を売り回っている間にテキサスの教会では銃乱射事件が発生し、26人の尊いいのちが銃弾に奪われているのです。
  • 敵を愛し、祈る…今、世界のリーダー達は、何を目標にして、人々をどう導こうとしているのでしょうか? さらに私たち一人ひとりは、何を目標にして、どう生きようとしているのでしょうか? イエス様はおっしゃいました。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ福音書5章44節)
  • 敵とは…私たちにとって「敵」とは誰でしょうか? すぐに思い浮かぶものをあげてみると①命をおびやかすもの、②遠ざけたいもの、③異質なもの等々…。指導者、身内、知り合い、職場や学校の友人も敵になり得るでしょう。極論をいえば自分以外のすべての人は敵と言えるかも知れません。更に言えば自分自身も敵になり得ます。
  • 祈り…これらの敵が敵でなくなるのは“祈り”です。祈りは霊的変化をもたらします。人間の力は限られていますが、主イエス様による祈りは、生きとし生けるものに対するいつくしみと限りない希望を生み出します。この世でもっとも生産性があるのが“祈り”です。なぜなら主イエス様は創造の主とつながっており、神の国そのものだからです。“祈り”によって天に宝(輝き)をたくわえることができます(マタイ福音書6章20節、Ⅱコリント4章7節)。だれもその宝を奪うことはできません。
  • 結び…今週も皆さんが、いつくしみと希望で内側から輝きますように。
Posted on 11/05/2017 at 19:04, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『人生はやり直せる』(2017.11.5)

 

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。(ルカ福音書15章22節)

 

  • はじめに…昨日は、家内と「明治村」に行って来ました。子どもの頃に何度か訪れたことはありますが、今回ほど“明治”を実体験したことはありませんでした。帝国ホテル中央玄関、聖ザビエル天主堂、大明寺聖パウロ教会堂などの貴重な建物が多数あり、その中に足を踏み入れると、あたかも明治時代にタイムスリップしたかのような気持ちにさせられます。新しい時代を拓いた幕末、明治の志士たちの気概が伝わって来るかのようです。
  • 自分の人生を生きる…袴姿に着がえて、明治村を散策する若い女性もいました。最近はコスプレや、仮装を気軽に楽しむ風潮が見られますが、変身願望なのか、自分らしさの表現なのか、はたまた息苦しい日常から非日常への逃避なのか…。いずれにせよ“自分の人生を生きよう”という意志が働いているように思います。
  • 人生はやり直せる…とはいえ、人生紆余曲折、波瀾万丈はつきものです。自分の願いどおりにはなりません。間違いや失敗はつきものです。また災難や事故、病気、そして老いは避けられません。そのような中で、社会に不信を抱き、自分の人生を否定するしかないのでしょうか? そんなことありません。外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされます(Ⅱコリント4章16節)。今日の聖書のテキストは、放蕩息子が父のもとに帰って来る、その息子を父が愛を持って受け止めるという、イエス様の語られたたとえ話です。息子は一番良い着物を着せてもらい、親子の関係を回復しました。そして人生をやり直すことができたことでしょう。それは私たち一人ひとりにとっても同様です。
  • 天の住まい…私たち信仰者の帰るところは天の住まいです。天の父の愛が満ち、イエス様の憐れみが包んでいます。そこは神の子として完全に自由に、そして永遠に生きる「天国村」です。
  • 結び…わたしはあなたを待っている、あなたの帰って来る姿を見たら、走り寄ってあなたをわたしの腕で包み込む、そう語られる天の父が確かにおられます。

天の父を信じ、イエス様を信じて生きる皆さんでありますように。

Posted on 10/29/2017 at 16:25, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『いっしょに喜んでください』(2017.10.29)

 

帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。(ルカ福音書15章6節)

  • はじめに…私の勤めるデイサービスは、最近、男性の利用者の方が少しずつ増えてきています。そんなこともあって「囲碁や将棋をやりたい」というリクエストがあり、遅ればせながら私も囲碁・将棋を覚えるために本を探しに。なかなか希望の本が見つからなかったとき、ふと目に留まったのが『介護のすすめ』(三好 春樹著/筑摩書房)。この本が、ある意味で仕事に行き詰まりを感じていた私にとって、目からウロコ、救いの一冊でした。それから三好春樹さんに興味を持ち、彼の著書『野生の介護』(雲母書房)を購入し、読んでいます。
  • 渋柿の渋を抜く…話しは変わりますが、デイサービスの片隅に柿の木があります。実は渋柿です。それで毎年、渋を抜いて昼食のときに皆さんと分けて食べます。焼酎につけて浸してビニール袋に密封して4、5日置いておくという方法で渋を抜いています。他にどんな渋の抜き方があるかを利用者の方に聞いてみると、米ぬかにつける、灰に水を含ませてまぶす等して渋を抜いたと教えてくれました。
  • いなくなった羊…デイには、いろいろな利用者さんが集まってきますが、逆に離れていく方もあります。今月は立て続けに2人の方が利用中止に。理由はそれぞれありますが、止めようと思うに至る前に、何とか対処できなかったのか…。また中止とまではいかなくとも、不満を漏らす方もあり、私自身の力不足を感じます。
  • いっしょに喜ぶ…今日のテキストのテーマは、「失われた者の回復と救い」ですが、見方を変えれば(それが別の意味で救いなのですが)「羊を見失う羊飼い」「息子に見離される父」つまり「力不足の全能者(無力な神)」と言えるでしょう。三好氏のことばを借りれば「権力者にできるまともなことは、少しでも権力的ではなくなること」でしょう。神は失望しません。捜し、そして待ちます。権力で無理やりつなぎとめたり、見捨てたりする方ではなく、多様な愛で包む方です。そして喜びの根拠となられる方です。渋柿を甘くする方です。神の愛に包まれた者は、喜びに満たされます。これこそ神の力の現われです。
  • 結び…今年の柿は豊作です。どこの家の柿の木もたわわに実がついています。もちろん渋柿も、です。神の愛に包まれて、喜びが内側から満ち溢れて来るよう、祈ります。
Posted on 10/22/2017 at 14:13, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『捨てた石』(2017.10.22)

 

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。(詩篇118篇22節)

 

  • はじめに…衆院選挙と台風21号(人と自然)の動向に関心が集中してしまいがちですが、少し内なる幕屋の深みに霊性を向けたいと思います。人や君主に信頼するに勝って、主が信仰者にとっての唯一の避け所であり砦です。
  • 聖書(みことば)の中心…以前、聖書の中心は詩篇118篇だと言いました。私にとって、その確信はますます堅固なものになっています。もちろん、みことばに優劣はありません。聖書の、どのみことばを取っても、重要さに変わりはありません。みことばは、信仰者にとって、人生の大黒柱であり、要(かなめ)です。前回は「ホレブの岩」が主題でしたから、今回は「捨てた石」を主題に取り上げます。
  • 家を建てる者…「家を建てる者」と訳されている原語は“ハボニーム”で「建てる者たち」で、①家を建てる者、②町を再建する者、③国を復興する者、と多様な意味を含んでいますが、ざっくり言えば人々の生活(暮らし)を再興する働きを担う者と言って良いかと思います。
  • 捨て石…しかし、そのような有益な働きをする者によって“価値なし”として捨てられる石(者)もあると言うのです。この「捨てる」というのは単に事務的ではなく、もっと感情的な意味合いがあることばで、“拒む、嫌がる、忌み嫌う”というニュアンスがあります。存在自体が邪魔、一刻も早く目の前から遠ざけたいという感じです。
  • 礎の石…ところが、その嫌われ者が最も重要な位置になければならない、そう伝えています。イエス様ご自身が、このみことばを語られています(マタイ21章42節)。私たち自身、心の奥深いところで忌み嫌っている人がないか、つまり、嫌悪している人の中におられるイエス様を排除しようとする感情が働いていないか、自己吟味する必要があるでしょう。と言っても私たちには“相性”というものもあることを否定はできません。イエス様を礎の石としてしっかり内なる幕屋の基礎に据えて、キリストのからだとして互いに組み合わされ成長させて頂ければ幸いです。これは私たちの努力ではなく主ご自身の救いの御業です。
  • 結び…主イエス様が私たちの霊、たましい、からだの救いを成し遂げてくださいますように。
Posted on 10/16/2017 at 21:51, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『ホレブの岩』(2017.10.15)

 

さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。(出エジプト記17章6節)

 

  • はじめに…先週、オープンして間もない「イケヤ長久手店」へ行きました。何とか駐車場に車を止めることもでき店内へ。はじめのうちはゆっくり家具を見ながら店内を歩いていましたが、だんだんとお客さんの人数が増え、人ごみをを分けながら前に進むような状態に。そして疲れと空腹感が溜まって来て、気持ちの余裕がなくなって来ました。それは私たちだけでなく、ある外国人の女性のお客さんはスタッフに「出口はどこっ!」と怒気を含んだ声で尋ねていました。
  • 荒野の旅路…モーセ率いる出エジプトのイスラエルの民も、主の導きと奇蹟の連続で意気揚々…。しかしだんだん雲行きかが怪しくなり、あちこちから不平不満がモーセに向けられるように。水が苦い、エジプトの肉鍋が恋しい…。死んだ方がまし…。そのような民の要求に主はマナを与え、うずらを与えられました。しかし環境の厳しい荒野の旅路。飲み水の確保ができなくなってしまいました。「なぜエジプトから連れ出したのだ! 死なせる気か!」とモーセを責める民。
  • 岩を打つ…窮地のモーセに対して主は、「ホレブの岩の上に立って、岩を打て」とみことばを告げられました。モーセが岩を杖で打つと、その岩から水が(大量に)溢れだしたのです。“岩”はイエス様の型だと、使徒パウロは語っています(Ⅰコリント10章4節参照)。渇きがいやされたと思いきや、今度は敵(アマレク人)の襲来。モーセの後継者ヨシュアが戦いの先頭に立ち、モーセは手を上げてとりなしの祈りを続け、結果、勝利に導かれました(出エジプト17章8-16節)。これは十字架のイエス様の型です。
  • 十字架による贖い…イエス様はただ一人、すべての人の罪を背負い、十字架の死をもって贖いの御業を成し遂げて下さいました。血を流され、私たちの罪を取り除いて下さいました。再び来られる時は、まったき救いのために来られると、聖書は語っています(ヘブル9章25-28節)
  • 結び…信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さないで、愛によって働く信仰と希望に生きる皆さんお一人ひとりであるよう、祈ります。
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