Posted on 06/16/2023 at 21:27, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『十字架の八言』(新約に引用されている旧約 その52)(2023.6.18)

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも、(詩篇22篇1節) /三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マタイ27章46節)

◆はじめに…現在、詩篇が引用されている新約の箇所を続けて学んでいます。夕べの祈りの詩篇4篇、乳飲み子のホサナの詩篇8篇、揺るぎない主の支えの詩篇16篇、そして復活の調べなる主の御声の詩篇19篇、それぞれの詩篇から日々の慰めと励まし、力を得て一日一日を過ごしています。

◆十字架の七言…イエス様は十字架の横木を背負い、ゴルゴタの丘へ登り、手と足に釘を打たれ十字架にお掛かりになられました。十字架の上でイエス様は、七つの言葉を語られました。時系列で、①あなたの息子、あなたの母がいます(ヨハネ19章26-27節)、②彼らをお赦しください赦し(ルカ23章34節)、③きょう、パラダイスにいます救い(同43節)、以上が人との関係におけることばです。そして④エリ、エリ、レマ、サバクタニ絶望マタイ27章46節)、⑤わたしは渇く苦痛(ヨハネ19章28節)、⑥完了した勝利(同28節)、⑦わが霊をゆだねます信頼(信託)(ルカ23章46節)が、神との関係におけることばです。

◆イエス様の“喝(かつ)”…ただ七つのことばの他に、もう一言、八言目があります。“大声での叫び”です。この最期の絶叫の後、神殿の聖所と至聖所を仕切っている幕(厚みが手のひらの幅)が、上から下まで真っ二つに裂けたのです(マタイ27章51節)。これにより年に一度、大祭司だけが入ることが許されていた至聖所(神の臨在の場所)への道が、何の制限もなく毎日、すべての人に開かれたのです。父なる愛の神との親密な、永遠の交わりへの道が開かれたのです。そしてイエス様は、“息を引き取られた”のです。一般的にこのことばは「死んだ」ことを意味するのですが、原語は“霊を解き放たれた”です。つまり霊が解放されて(死の束縛から)自由になった状態です。ところで禅宗の僧侶が、お経の最後や、座禅の際に「かーつ!」と言う叫び声を出すのを聞いたことがあるでしょうか? 「喝(かつ)」は、口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形の文字です。イエス様の最後の叫びは、この“喝(かつ)”に似ています。いや、真実の“喝”です。それを聞いたローマの百人隊長は「この方はまことに神の子であった」(マルコ15章39節)と告白せずにはいられなかったのです。

◆結び…イエス様は、天国の門を開き、すべての人の帰りを待っておられます。

Posted on 06/10/2023 at 20:48, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『主の声は復活の調べ』(新約に引用されている旧約 その51)(2023.6.11)

しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた(詩篇19篇4節) /でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」(ローマ人への手紙10章18節)

◆はじめに…朝の通勤時、一日の業務の流れを頭の中でシュミレーションしながら車を走らせます。ふと気づくと、やや下向き加減で目の前の道路だけを見ています。そんな私に今日のテキストの詩篇19篇は “顔を上げて天と大空を見よ”と促します。そして業「務をこなすことが仕事ではなく、主の栄光を、業務に取り組む姿を通して顕す(告げる)ことではないですか?」と語りかけます。リビングバイブルは、詩篇19篇5-6節を「太陽はその場所から出て、結婚式の花婿のように晴れ晴れと、また、競技を前にした選手のように、意気揚々と大空を闊歩します」と記しています。このみことばに励まされ、職場に派遣されている使命(ミッション)を再認識し、顔を上げて仕事場へ向かう日々です。

◆沈黙の中(行間)にメッセージがある…今日のテキストの詩篇19篇とローマ書10章は神の啓示について記しています。それは“沈黙のメッセージ”と言えます。それは40代で聴力を失ったベートーベンが、静寂の世界のただ中にありつつ、心に鳴り響く音楽を、五線譜に音符(和音)を並べることで、不朽の名曲を後世に残したように、小さい私たち自身の心に響く福音(神のことば)に信頼して生きる生き様が、後世への遺産(証し)となると信じます。

◆全地に響き渡る声…ところで、詩篇19篇4節の「声」と訳されているヘブル語は、「和音」の語意があります。“心の琴線に触れる”という言い方がありますが、たとえ大きな音や声でなくても、ほんの世界の片隅で蚊の鳴くような声であっても、雑音にかき消されてしまうような弱い音であったとしても、心の琴線に触れるなら、響きとして伝わる。まさに福音がそのような音、声、ハーモニー、シンフォニーだと、パウロはローマ書10章18節で言っているのでしょう。

◆主の声は復活の調べ…「声」と日本語訳されているところは、ヘブル語で“קַוָּ֗ם”と表記します。マルコ5章41節の「タリタ クミ(少女よ、立ち上がれ)」の「クミ(立ち上がれ=復活せよ)」も同じ表記です。つまり“主の声は復活の調べ”と言っても良いでしょう。自然を通して、また、人を通して、そして聖書のみことばを通して、あるいは祈りや夢、黙想を通して、復活の調べなる主の声を聞くとき、私たちは、暗やみ、死の淵から再び立ち上がる活力(復活の力)を得ます。

◆結び…復活の主を信じる者は、誰一人、失望することはありません。

Posted on 06/03/2023 at 21:56, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『私はゆるぐことがない』(新約に引用されている旧約 その50)(2023.6.4)

私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない(詩篇16篇8節) /「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は私が動かされないように、私の右におられるからである(使徒の働き2章25節)

◆はじめに…リハビリデイの現場で働いていますが、利用者さんの傍らに立って移動のサポートをする場面が多々あります。当然ながらサポートを必要とする利用者さんは、サポートを必要としない利用者さんと比べて、ADLが低下しています。しかし、支えがあれば残っている能力を使って、移動(活動)でき、さらにその人らしく自立した生活ができます。自立というより“共立”と言った方が良いかもしれません。仕事場では私自身、支える側ですが、日常生活では支えられる側です。島の皆さんのやさしさに支えられ、いつも主が共にいてくださり、日々を生きる力を与えられています。

◆ミクタム…今日のテキストの詩篇16篇の表題は「ダビデのミクタム」です。ミクタムというとすぐに連想するのはミクタムレコードではないでしようか。「神様を表現することが最高の芸術だという確信」「創造主を近く感じたことを賛美として“黄金の歌”を届けられたらと、昨年召された小坂忠さんが1978年に設立した日本初のゴスペル専門のレコード会社です。

◆キリストの福音…先週のテキストでは、幼子と乳飲み子の口には“力”と“賛美”があり、それは主に向かって叫ぶ“ホサナ!”だと。そして“ホサナ!”と主に向かって叫ぶことで、主の力が注がれて救われるのだと。それはペンテコステのとき最高潮に達し “異言”(天国の方言)として、全世界の共通言語、根源的なことばとして、すなわち乳飲み子が発する、強力な意志をもった“喃語(なんご)”として皆が話し出したのだと学びました。その後ペテロは、今回のテキスト詩篇16篇8-11節を引用しつつ、 ダビデの黄金の歌(ゴールデンソング)をキリストの福音(ゴッドスペル=ゴスペル)メッセージとして語ったのでした。「この方(イエス様)が死につながれていることなど、ありえない」「いのちの(木への)道を知らせてくださる」「聖霊を注がれたのだ」と。聖霊様はいつも私たちの傍ら(右)におられる方です。そして助言を与えて下さる方です。そしていのちの(木の)道を知らせて下さる方です。その方を創造主の右の座におられるイエス様が送って下さったのです。

◆結び…聖霊様の語られる御声に耳を傾け、日々の小さな歩みと、人生の重要な決断を導いていただけるのは、すでにエデン(ゆずりの地所)が回復されている揺るぎのない証しです。

Posted on 05/28/2023 at 07:26, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『ホサナ!の力』(新約に引用されている旧約 その49)(2023.5.28)

壱岐島の麦秋

あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、を打ち建てられました。(詩篇8篇2節) /「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」(マタイ21章16節)

◆はじめに…先週の日曜から月曜にかけて、北九州から親しい知人が壱岐を訪ねてくれました。黄金色の麦穂と紺碧の海原の広がる島内の景勝地、名所、キリシタン史跡を巡りました。また移動中の車中ではいろいろな話題で話は尽きず、夜は蛍の舞を鑑賞し、有意義な時を過ごしました。今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。聖霊を受け、証し人としての歩み始めた先達の姿からメッセージを聞きたいと思います。

◆幼子、乳飲み子のホサナ…幼子、乳飲み子たちは、イエス様のエルサレム入城の際、父母をはじめ周囲の大人たちの賛美を聞き、またイエス様のいやしの御業を目の当たりにし、『ホサナ!(主よ、救ってください)』と叫びました。その声が、宮にこだましました。幼子たちは、大人をまねて“ホサナ”と叫んだことでしょう。また、母の背中(あるいは胸)の乳飲み子は、はっきりとした発語ではなく、“ホワハ、ハハ”のように不明瞭な発音ではあるものの、明確な意志を持って発音したと想像します。

◆ホサナ!の力…今日のテキストによれば、幼子と乳飲み子の口には“力”と“賛美”があったと語られています。それは幼子と乳飲み子が主に向けて叫ぶ“ホサナ!”でした。“ホサナ!”と主に向かって叫ぶことで、主の力が注がれて救われるのです。ペンテコステのとき、それは最高潮に達しました。“異言”(天国の方言)として、それは全世界の共通言語として、根源的なことばとして、すなわち乳飲み子が発する、強力な意志をもった“喃語(なんご)”として皆が話し出したのです。それはペテロのメッセージとともに人々の心を刺し貫いたのでした。人々は「私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねたとき、最後にペテロは「この曲がった(罪に汚れた)時代から救われなさい(ホサナ!)」(使徒2章40節) と、メッセージを結んでいます。

◆結び…マタイ21章は“ホサナ”の後、いちじくの木が枯れた出来事を記しています。創世記3章との関連を考慮すると、いちじくの木=善悪の知識の木が枯れ、いのちの木のみが繁る、やがて到来する新天新地を想起させる出来事と言えます。ホサナ!は、再臨のイエス様の、すべてを一新する再創造の力を秘めている、そう言っても過言ではありません。

Posted on 05/14/2023 at 06:30, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『日暮れて安らかに』(新約に引用されている旧約 その48)(2023.5.14)

恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心(=内なる人)に語り、静まれ。(詩篇4篇4節) /怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。(エペソ人への手紙4章26節)

◆はじめに…日に日に朝夕の日が長くなってきました。朝は5時前には白々と日が明け始め、夕方7時過ぎになって日が暮れます。今年一番日が長い日は、夏至の6月21日(日の入り午後7時35分)、もっとも短いのは冬至で12月22日(午後5時17分)です。当然ですが日が暮れる時刻は一定ではない訳です。つまり日々変化する日暮れに憤り(感情)を関係づけることができるとすると、怒りの感情は、意志によってコントロールできるものであり、コントロールすること(言い換えれば新しい一日を創造すること)を主は私たち自身に委ねておられるということです。

◆アンガーマネジメント…怒りをコントロールする心理学的手法を“アンガーマネジメント”と言いますが、①6秒ルール②怒りのスコア化と記録③その場から離れる④固定観念を捨てるなどの方法があることが知られています。いずれも一定の効果は期待できるものですが、聖書は心理学的方法論として怒りをコントロールすることではなく、主との人格的交流によって怒りを管理することを勧めています。つまり自分自身の閉じた器(外なる人)の中で怒りをコントロールするのには限界がありますが、主に向かってこころを開くと、無限に開放した拡がり(内なる人)の中で怒りの感情はリセットされ、すべてが一新されます。

◆主に感謝し主を喜ぶ…すべてが一新された感情は「無」とか「空」ではなく「満」です。主に対する感謝で満ち、主に対する喜びで満ちます。ユダヤの時間感覚では、創世記にあるように日が暮れて(日没)から新しい一日が始まると認識します。一日の始まりに床に就くとき、主に対する感謝と喜びと平安に満ちた思いで眠ることができます。主の御翼に覆われて、安心して休むことができます。イエス様も「あすのための心配(怒りも思い煩いも)は無用です。あすのことはあすが心配します」(マタイ6章34節)とおっしゃいました。

◆夢で語られる主…私事ですが、一日一日、仕事の負荷が増す中、今週はウイークデーの休みの無い週。正直、体力的精神的にきついなあと思っていたところ、主ご自身が夢の中で「今日一日、ゆっくり自由に過ごしていいですよ」と語ってくださいました。夢から覚めた早朝、身体も心も軽くなっていました。

◆結び…主は、祈る私たち一人ひとりを気かけて下さり、声を掛け、怒りや思い煩いを除いてくださり、感謝と喜びで満たして下さいます。

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