Archive for 11月, 2024
Posted on 11/25/2024 at 08:35, by matsumoto
「イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。」(創世記25章28節)
◆はじめに…親子関係は、全人類の永遠のテーマと言えるでしょう。親子の在り方は千差万別です。子どもの頃、両親から「家(うち)とよそは違う」「家(うち)はうち、よそはよそ」などと、よく言われました。子どもは子どもなりに自分の家庭と近所の家庭を見比べて、それぞれの良い点、悪い点(自分にとって都合の良い点、都合の悪い点)を比較しながら、時に両親を見本にして、時に反面教師にして、目指すべき親子関係や家庭の在り方を学びながら成長するものです。今日は『母の愛、父の愛、真実の愛』と題してリベカとイサクの子ども達に対する愛の形から、イエス様の私たちに対する究極の愛について、みことばに聞きます。
◆偏愛?…私には弟が一人ありますが、子ども心に「両親が自分よりも弟の方を可愛がっている、弟の方が大切にされている」と感じていました。今日の聖書では、父イサクは長男エサウを愛し、母リベカは弟ヤコブを愛していた、と伝えています。どの家庭でも程度の差こそあれ、兄弟があれば、どちらかをより愛(偏愛)することがあるものなのでしょうか?
◆リベカはヤコブを愛した…母リベカは弟のヤコブを愛していました。なぜでしょうか? 最大の理由は、二人を身ごもっていた時、主に祈る中で「兄が弟に仕える」(創世記25章23節)とみことばを聞いたからに他なりません。他の個人的な要因(ヤコブは物静かで品行方正でエサウは乱暴で衝動的)は、結果論であって、ある意味無関係と言っても良いでしょう。きっと性格がまったく逆であったとしてもリベカのヤコブへの愛は変わることはなかったでしょう。
◆イサクはエサウを愛した…一方、イサクはエサウを愛しました。そしてエサウに祝福を与えようとしました。どれほど贔屓目(ひいきめ)に見ても、人間的にはヤコブがエサウよりも優っているのは明白です。イサクはエサウが乱暴者で衝動的な性格で、一杯のスープのために長子の権利を売ってしまう軽薄な男だということを知らなかったのでしょうか? そしてリベカに主が語られた預言を知らなかったのでしょうか? エサウの性格の欠点にイサクが気づいていなかったというのではありません。また、エサウが契約を継承するのにふさわしい人物だとイサクが思っていたというのでもありません。人格的な欠点があり、契約の継承にふさわしくなくても、自分の子だから無条件に愛した、のです。
◆真実の愛…イエス様の私たちに対する愛も、無条件の愛です。同時にリベカがイサクを騙してまでヤコブを愛した犠牲の愛です(創世記27章13節)。
◆結び…母リベカの犠牲の愛と、父イサクの無条件の愛で私たちがどんな人間であっても愛し抜いて下さるイエス様に心から感謝します。
Posted on 11/20/2024 at 21:57, by matsumoto
「(…)主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」(創世記24章27節)
◆はじめに…昨日は、私の勤める社会福祉法人で全職員(参加者約150人)の『虐待防止研修会』がありました。はじめに九州看護福祉大学の先生の講義があって、その冒頭で、「残念ながら人間は虐待をする生き物なんです。グループの中で異質な存在があると排除しようとする。本能としてそういう気持ちを持っていると把握(意識)しておかないと、自分は関係ない、自分はやらないはずだと思い込んでしまい、結果、虐待をしてしまうことになる」と指摘されました。そして虐待に及んでしまう最も大きな要因が“怒りの感情”で、それに支配されないベストな方法は“一時、その場から離れる”ことだと話されました。
◆イシュマエルの追放…アブラハムとサラには長い間、子どもが与えられませんでした。悩んだ末、サラ(サライ)は、当時の社会の風習に従って、女奴隷のハガルを自分の代わりにアブラハムに側室として与え、結果、ハガルはみごもり、イシュマエルを産みました。この一連のことでサラとハガルの間に確執が生じ、サラはハガイを虐待しました(創世記16章6節)。その様子を見て、イシュマエルは育ち、サラに待望の子、イサクが生まれます。そしてイサクが乳離れの頃、イシュマエルが“イサクをからかっていた”現場をサラは目撃しまた(同21章9節)。この「からかう」というのは、ヘブル語は性的な表現です。サラは性的虐待の影響でイサクが子孫を作れなくなり、アブラハムの遺産と約束を受け継ぐことができないようになるのではないかと心配し、イシュマエル母子を出て行かせるようにアブラハムに訴えたと考えられます。その後あの“イサク奉献”の出来事が。
◆墓の購入と嫁捜し…そしてサラは生涯を閉じます。この時、アブラハムは1ミリの土地も所有していませんでしたし、後継ぎのイサクは40歳間近でしたが結婚していませんでした。主の約束はこの時点では何一つとして実現していませんでした。しかしアブラハムは悲嘆に暮れることはありませんでした。まず妻を葬るための洞窟を法外な値段を支払って買い取りました。そして後継ぎのイサクの嫁捜しを始めました。主は約束を決して反故にする方ではないと信じ切っていました。嫁捜しの命を受けた最年長のしもべは、嫁候補のリベカに出会ったとき、その驚きと感謝の思いを「主は私の主人に対する恵みとまことをお捨てにならなかった」(同24章27節)と主を礼拝しました。この箇所が恵みとまことが最初に出て来るところです。アブラハムに対する主の約束の始まり、源です。
◆結び…イエス様ご自身が恵みとまことに満ちておられ、イエス様において恵みとまことが完全に実現した(ヨハネ福音書1章14、17節)ことを感謝します。
Posted on 11/10/2024 at 21:15, by matsumoto
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22章12節)
◆はじめに…今月11月は『児童虐待防止推進月間』です。すべての子どもは改正児童福祉法において①生きる権利②育つ権利③守られる権利④参加する権利が保障されています。しかし年間70人を超える子どもたちが虐待によって死亡しています。5日に1人のこどもが虐待によっていのちを落としていることになります。子どもは親や大人、社会の所有物ではありません。今日は、アブラハムの“イサク奉献”の記事から、主が、人間の作り出した世界の状況がどのようなものであっても、子ども(私たちも含め)を丸ごと愛で包み、神の国に招き入れて下さっていることを、共に覚えたいと願っています。
◆主の約束…アブラハムとサラは何年も子どもを待ちました。主が、「空の星、地の塵、海岸の砂粒のように多くの子孫が生まれる」(創世記13章16節、15章5節他)と繰り返し約束しました。子どもは生まれませんでした。サラはもう年老い、更年期を迎え、自然に子どもを産むことは不可能でした。サラは嘲笑しました(創世記18章12節)。しかし主は約束どおり、子どもイサク(=笑う)を与えられました(創世記21章1-3節)。
◆イサクをささげよ…ところが主は、「イサクをわたしにささげなさい」(創世記22章2節)と語られます。古代世界では、子供は両親の法的所有物と見なされていました。子どもには何の権利もなく、父親は子どもに対して何でも好きなことをすることができ、殺すこともできました。これが異教世界に広まっていた子どもの犠牲の習慣全体の根底にありました。それと同じようにイサクを犠牲にするように主はアブラハムに求めているのでしょうか? そうではなく、真逆です。子どもを親の自由に扱うな、子の所有権は私(主)にある、その意味で主は、「イサクをわたしにささげなさい(返しなさい)」と語られたのです。
◆主の備え…それで主はアブラハムに、代償(贖い)の羊を備えられました。そしてイサクの誕生と成長のすべてを与えて下さった主に、感謝と祝福の礼拝をささげた出来事が“イサク奉献”です。私たち一人ひとりも同様です。神の国に属する子どもとして、この世のすべての人間的支配から私たちを救い出して下さり、私たちが私たちらしく自由に、喜びをもって笑いながら今日を大切に生きられるよう、イエス様を備えて下さったのです。
◆結び…イエス様を私たちのために備えて下さった天地創造の主に栄光をお返しします。
Posted on 11/04/2024 at 08:00, by matsumoto
主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。(創世記12章1節)
◆はじめに…今日は『自分自身への旅』と題して、困難な状況でも希望をもち、自身の心に従って自由に、そしてイエス様の示して下さった道を、勇気をもって歩むということを御言葉から聞いていきたいと願っています。一昨日『ゴジラ-1.0』を、金曜ロードショーで観ました。設定は第二次世界大戦の末期。特攻の乗組員だった敷島が、零戦が故障したと偽り、島の基地に着陸。そこへ「ゴジラ」が襲撃。敷島は恐怖で銃を撃つことができず、敷島と橘以外の整備兵たちは死亡する。故郷へ帰ってきた敷島は、空襲で親を失った女性・典子と、彼女が空襲の最中見知らぬ他人から託されたという赤ん坊に出会い、共同生活を始める。敷島は現金収入を得るため機雷撤去の仕事に、典子も銀座で事務員に。その銀座へゴジラが。敷島は典子の救出に向かい一緒に逃げる。しかしゴジラの放出した熱線で発生した爆風から典子は敷島を建物の陰に押し込んで助け、自身は爆風に吹き飛ばされる。占領下で軍隊を持たない日本は民間人のみでゴジラに立ち向かうことに。敷島も参加しゴジラに勝利する。敷島の元へ一通の電報が届き、典子が一命を取り止めて病院にいるとの知らせで、明子を伴って病院にて典子との再会を果たす。「あなたの戦争は終わりましたか」と典子は敷島に語り、敷島は頷く。
◆故郷・家を出る…アブラハムの生まれ故郷はウルという月神礼拝の中心地でした。当然、アブラハムも月神シンを崇拝してしたことでしょう。故郷・家は、強力な“同調圧力”に晒され続けて自由が極度に制限されている環境です。「そこから出よ」と主はアブラハムに語られたのです。私たちも人生の様々な環境で、自由を制限する同調圧力に晒されます。それらは私たちの個性、可能性を潰します。ゆえに主はアブラハムに「そこを出て、わたしが示す地へ行きなさい」と御声を掛けられました。アブラハムにとって、それは月神シンとの闘いの始まりでした。私たちにとっては“内なるゴジラ”との闘いです。私たちの中に存在する恐れ、不安、ネガティブな感情です。新約聖書で言えば“666”でしょう。
◆同調圧力に抗うイエス様…死んだ魚は流れに身を任せます。しかし生きている魚は流れに逆らって泳ぎます。イエス様は宗教的、政治的な同調圧力に屈することなく、抗(あらが)いました(マタイ22章15-21節参照)。真理を告げ、愛をもって接し、奇跡を行ない、弟子を育てました。そして十字架に掛かり、私たちを罪から解放して下さいました。主がアブラハムに約束の地を示して下さったように、主が神の国への確かな道を示して下さいました。私たちの周囲には何も立ちはだかるものは無いのです。勇気をもって、歩み出せ、そう主は語っておられます。
◆結び…信仰と希望と愛を私たちの内に与えて下った主に感謝します。