Archive for 12月, 2024
Posted on 12/29/2024 at 22:04, by matsumoto
すると、ユダが彼に近づいて言った(…)どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。(創世記44章18-33節)
◆はじめに…本主日で2024年の礼拝は最後となります。一年間、それぞれ離れた所にありながらも、共にリモートでの礼拝を捧げられたこと、心から主に感謝するとともに、皆さんお一人ひとりに感謝します。主の愛は一千キロどころか、二十億光年をも包み込み、満たします。
◆坊主憎けりゃ袈裟まで憎い…障害者に関わる仕事の中で、様々な障害の方との出会いがあります。誰一人として同じ方はなく、多様です。その中で、最近お話を聞かせてもらった方は、統合失調症の方でした。その方がおっしゃるには「色柄の服が私に向かってマイナスのメッセージを送って来るんです」と。プラスのメッセージは聞こえて来ないそうです。“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”的な精神状態から来るものかも知れません。ヨセフに対する兄弟達の反応も、まさにそれと同様でした。ヨセフはヤコブの寵愛(ちょうあい)を受け、立派な仕立ての服を誂(あつら)えて着せてもらっていました。兄弟達にとって、その服を見る時、「自分達は父ヤコブから愛されていない」とのメッセージを読み取り、ヨセフに対して憎しみとともに殺意を抱きました。この状況は、お互いを不幸にします。
◆距離と近さ(分離と結合)…ヨセフの兄弟達は、ヨセフと距離を取っていました。一方、父ヤコブはヨセフを近くに置いてある意味、一心同体のように接しました。これらの兄弟関係、親子関係が、イスラエル一族の不和の原因でした。心理学に「ヤマアラシのジレンマ」というのがあります。近づき過ぎると怪我をし、離れ過ぎると凍えてしまう。相手を支配、独占するのではなく、また無関心、無視するのでもなく、お互いを尊重し、敬意をもって接することでより良い人間関係が築けるということです。人間関係には適度な距離感(間隔)が必要だと言う話です。
◆神様と私たちの関係…創造主なる神様と私たちの関係も、適切な距離感が大切です。近過ぎると私たち自身が神(救世主)になり代わり、離れると放縦になり神を神とも思わなくなり、罪を罪とも思わなくなってしまいます。そのバランスを取って保って下さるのが聖霊様です。私たちを「聖」(分離)として下さると同時に霊の「交わり」(結合)を創って下さいます。まさしく“炎のような別れた舌がひとりひとりの上にとどまった”聖霊降臨のイメージです。
◆結び…今年2024年も残すところ、あと二日となりました。聖霊様の導きによる出来事と隣人と出会いの中で、イエス様の愛の御業を体験し、証しで締めくくる年末となるよう、祈ります。
Posted on 12/22/2024 at 22:24, by matsumoto
「ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。(創世記50章21節)
◆はじめに…本主日アドベント第四主日は「マリヤのキャンドル」です。マリヤが主の御言葉を受け入れ、御子イエス様をその胎に宿した、その従順、謙遜を象徴するキャンドルです。マリヤ自身、「ひどくとまどって(…)」(ルカ1章29節)と、心の葛藤を覚えつつ、「おことばどおりこの身になりますように」(ルカ1章38節)と、御使いのメッセージを受け入れました。ことばを耳で聞いて真の生命を懐妊した、科学の域を超える霊的な事柄です。これは自らのいのちを主に預ける覚悟、信仰による決断です。誰一人信じてくれそうもない出来事を、身体丸ごと受け止めた歴史的事実(真実)なのです。今日は『祈り、夢、行動』と題して、聖霊の導きに従って歩むことについて、共にみことばに聞いていきたいと願っています。
◆熱心に捜される主…使徒信条第3項「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ」のヘブル語訳の使徒信条もありますが、その「聖霊により宿り」のところを日本語に訳すと「聖霊によって熱心に捜し求められた」となります。マリヤを熱心に捜し求められた主は、世に惑わされ、迷える私たち一人ひとりをも熱心に捜し求め、神の国の民(=わたしの民)として回復してくださるお方です。私たちの国籍は天にあります(ピリピ3章20節)。
◆ヨセフの祈り…マリヤが身重になったことが明らかになったとき、ヨセフは「内密に去らせようと、思い巡らした」と聖書は記します(マタイ1章20節)。この「思い巡らす」という言葉は70人訳聖書(ギリシャ語)の創世記6章6節で用いられています。アラム語では「慰める・(死者を)よみがえらせる」です。ですから「思い巡らす」というのは、慰めと回復を祈る祈りと言えます。
◆夢見るヨセフ…祈りながらヨセフは夢を見ました。「妻マリヤを迎えなさい(…)生まれる子の名をイエスと付けなさい。民を罪から救ってくれる」(マタイ1章20-21節)と、み使いに告げられました。新約のイエス様の父としてのヨセフと旧約のヤコブの子ヨセフの共通点は、夢見る者だということです。また常識的には明らかに好ましくない状況、出来事を前にしても受け入れ、騒がす、静かに祈り、主の御声を聞き、即座に実行する。イエス様ご自身の姿もそうでした。苦難の中にあっても受け入れ、騒がず、ひとり静かに祈り、みこころを行ないました。
◆結び…今年2024年も残すところ、あと一週間余りとなりました。聖霊様の導きによる出来事と隣人と出会いの中で、イエス様の愛の御業を体験し、証しする年末となるよう、祈ります。
Posted on 12/15/2024 at 20:47, by matsumoto
あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。(創世記37章5節)
◆はじめに…私たちはアドベントの時、イエス様の降誕を旧約のアブラハムにまで遡り、創造主の人類救済の愛の物語(御業)を振り返りつつ、その約束が確かなことを覚えます。今日は第三アドベントで「バプテスマのヨハネのキャンドル」です。
◆荒野で叫ぶ声…バプテスマのヨハネは、救い主なるイエス様を世の人々に、いち早く証しました。荒野で悔い改めのバプテスマを授け、多くの弟子を持っていたヨハネは、自己アピールでも自己承認でもなく、主イエス様を指し示し、主の顕れを人々に備えることに徹していました。自らを「キリストではない」「エリヤでもない」(ヨハネ1章20、21節)と、自分はただ脇役として「荒野で叫ぶ声」だとしました。その歯に衣を着せぬ言い分は、ヘロデヤの恨みを買い、首をはねられ亡くなりました(マルコ6章14-29節参照)。しかしその声は今も荒野で響き続けています。昨日、NHKのEテレで『こころの時代』の再放送でカソリックの修道士、小崎燈明さんが取り上げられていました。17歳の時、長崎で被爆し、自ら怪我はなかったのですが、助けを求めて足にしがみつく少年を置き去りにしたりしたそうです。そこで自らの本性「助けない」「逃げる」「赦さない」を突き付けられたと言います。
◆夢を告げるヨセフ…ヨセフは、自身の見た夢を、何の遠慮もなく、兄たちに語りました。ヨセフのたばねた束に、兄たちの束ねた束がおじぎをするという夢でした。それは兄たちにとっては屈辱的に聞こえ、ヨセフに対して憎しみを抱き、殺意にまで膨らみました。この夢によって、ヨセフはエジプトに売られ、濡れ衣を被せられ、監獄に入れられ、忘れられ、一縷の希望も潰えたかのようになりました。しかしこのどん底からヨセフの人生は一転しました。パロの夢を解き、総理大臣の地位に抜擢され、全世界的な飢饉の時に、兄たちが食糧を求めてヨセフのいるエジプトへやってきました。様ざまなやり取りの後、ヨセフは自らを兄たちに明かし、穴に突き落とされ、エジプトに売られた一連の出来事は、主がいのちを救うための出来事だったとし、責めたり、断罪したりせず、許しました。
◆人となったことば…ヨセフがエジプトに売られる出来事をある意味、決定づけた出会いがあります。創世記37章15節に“ひとりの人”が現れます。ヨセフとこの人との出会いがなければ、ヨセフは穴に突き落とされ、エジプトに売られる出来事は起こらなかったでしょう。私たちの人生にも、その時には意識もせず、些細な、しかし大事な“ひとりの人”との出会いがあるのではないでしょうか?
◆結び…私たちの人生にとって最も大切な“ひとりの人”はイエス様です。
Posted on 12/01/2024 at 08:14, by matsumoto
「彼は恐れおののいて、また言った。「『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。』」(創世記28章17節)
◆はじめに…昨日、熊本県の水前寺公園へ紅葉を見に出かけました。やはり温暖化の影響から、まだ色づき始めたくらいでした。けれども思いがけず、無料で観光ガイドをして頂き、『古今伝授の間』と呼ばれる池の湖畔に立つ萱葺の家の脇に、細川ガラシャ(ラテン語で「神の恵み」)が使ったであろう手水鉢に出会うことができたことは、まさに恵みでした。「本能寺の変」を起こした明智光秀の娘だったガラシャは、謀反人の娘ということで身を潜めて生きる他、術がなくなり幽閉され、孤独で寂しい時を過ごさざるを得ませんでした。その時に侍女の伝えたキリスト教のメッセージが生きる糧となったのでした。
◆孤独な旅路にて…今日は『イエス様との予期せぬ出会い』と題して、まさに孤独と困難なただ中でこそ、祈りに導かれ、そこにイエス様が共におられることを体験し、力が湧いてくることを、みことばを通して共に聞きたいと願っています。さて、ヤコブは、祝福を横取りされたと怒る兄エサウから命を狙われ、両親には彼を守る術はなく、結果、遠く離れた母リベカの故郷へと送り出されたのです。ヤコブは何も持っておらず、間違いなく大きな苦難に陥っていました。家から遠く離れて、一人で、彼は最も無防備な状態にありました。日が沈み、夜になり、明日の生命さえ危ぶまれる孤独な旅の途上でヤコブは祈りました。横になって眠り、それから天使たちが梯子を上り下りする荘厳な幻を見ました。そして主は、ヤコブに財産や約束の土地、そして子孫と大いなる民としての未来を約束し、同時に主は、彼とともに歩き、人生の旅路において彼を守ると約束しました。
◆天の門…イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(ヨハネ1章51節)と。私たちにとっては、イエス様ご自身が私たちの祈りに対する主の答えです。幽閉生活で孤独なガラシャを侍女が神父と教会につないだように、イエス様が、私たちを天国につなぐ梯子であり、天の門なるイエス様を通して、私たちは生ける父なる神とつながることができます。
◆予期せぬ出会い…一私たちは、神聖な場所や馴染みのある場所だけでなく、夜一人で(人生の)旅をしているときにもイエス様を見出します。主は私たちの手を握り、私たちを守り、私たちが倒れたときには私たちを抱き起し、私たちが失敗したときには私たちを赦し、愛によって私たちの霊、たましい、からだの傷を癒します。祈りの答えは、そのようなイエス様との“予期せぬ出会い”です。
◆結び…イエス様と予期せぬ出会いによって、枯渇している私たちの心の奥底から少しずつ泉が湧き、いのちが満たされていくことを感謝します。