Archive for 4月, 2025

Posted on 04/27/2025 at 19:34, by matsumoto

『“主のため”それとも“アザゼルのため”か』(ユダヤ人キリスト者と共に アハレイ・モット=死んだ後)(2025.4.27)

アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。(レビ記16章8節)

◆はじめに…新しい職場(重症心身障害者の通所施設での生活介護)で働き始めてほぼ一カ月が経過しました。今まで高齢者のデイサービス、障害者支援施設での支援をして来ましたが、重症心身障害者に特化した支援は今回、初めての経験で、一抹の不安はありましたが、新しい経験ができることのワクワク感、期待感は裏切られませんでした。主の導きに感謝しています。また、お祈りありがとうございました。

◆贖罪日…ところで本主日のレビ記16章の主題は、ヨムキプール(=贖罪の日)の儀式についてです。現在、この儀式は行なわれていませんが、この贖罪日(第七の月の十日)にユダヤ人の多くは25時間の断食をして過ごします。なぜ断食をするのでしょうか? ラビ・クシュナー氏は断食をするのは「他の誰とも変わらない人間であることを証明するため」だと言いました。つまり基本的には“本能によって行動する”者だということです。本能のなすままに衝動的に行動するとき、反社会的な行為だったり、主の御心(みことば)に背いたり、罪を犯さざるを得ない弱い者だということです。しかし、人間だけが本能に「否」を唱える、すなわち本能に判断を下すことができる存在です。つまり「外(肉)なる人」と「内(霊)なる人」の葛藤が、私たちの人生の舞台だということです。そのことを、断食をすることで身をもって思い起こすのが贖罪日です(贖罪日の歴史的背景は「金の子牛事件」(出エジプト記32章)です)。この断食に焦点を当てて、「アザゼルのため」「主のため」というみことばの意味を聞くなら、イザヤ書58章の内容になるでしょう。「あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつける(悪のこぶしをもって人を打つ)ためだ」(イザヤ58章4節)、「わたしが好む断食は(…)悪のきずなを解き(…)自由の身とし、すべてのくびきを砕くこと」(同6節以降)。

◆「主のため」「アザゼルのため」…この「主のため」と「アザゼルのため」の“二頭のやぎ”について、ラビたちは様ざまに注釈してきましたが、ヤコブとエサウを象徴していると結論づけました。一杯のスープのために祝福を手離すというエサウの衝動性と、感情に流されることなく、長期的な視点で行動し、熟考するヤコブとの対照です(創世記25章参照)。エサウ性とヤコブ性の両方の性質を私たちは併せ持っています。

◆結び…その私たちを、イエス様は丸ごと受け止めて下さっています。

Posted on 04/20/2025 at 21:47, by matsumoto

『交わりの回復と希望の光』(ユダヤ人キリスト者と共に らい病(ツァラアト)=メツォラ)(2025.4.20)

「それを、らい病からきよめられる者の上に七たび振りかけて、その者をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す」(レビ記14章7節)

◆はじめに…3月末の引っ越しの後、ほぼ1カ月の春休みを頂き、本主日のイースター礼拝から皆さんと一緒に、いとすぎ教会の礼拝を再開できる恵みを感謝します。引越しの荷物の片付けで、倉庫の肥やしになっていた金物類をリサイクル業者へ持って行きました。その受付事務所に入ると「求你指教我們怎樣數算自己的日子,好叫我們得著智慧的心」(詩篇90篇12節)と、壁面いっぱいに飾られた書が、目に飛び込んできました。新改訳では「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」。数あるリサイクル業者の中で、ここぞと選んだ場所で、思いもよらず、詩篇のみことばと出会ったことは、衝撃的でした。

◆温かいなあ…昨日19日、私たちの知り合いのご主人が召されたため、お別れに行ってきました。棺の安置された小部屋で賛美し、祈り、語らいの時を過ごしました。召される数日前、病室のベッドに伏しているご主人の意識が朦朧(もうろう)となり、何かに向かって手を伸ばしているその手を握った時、ご主人が「温かいなあ…」と話されたそうです。その時、ご主人が感じた温もりは、「イエス様の手の温もりでした」と語ってくれました。きっとご主人は、イエス様の温かい御手に引かれて天の御国の住まいに招き入れられたのだと信じます。そこにはイエス様の温もりと愛の語りかけに満ち満ちていることでしょう。

◆交わりの回復…今日、取り上げられているレビ記14章は「らい病(重い皮膚病/ツァラアト)のきよめ」の箇所です。つまり、人と神から分離(隔離)された境遇から、人と神との交わりの回復ということです。「らい病」というと、新約聖書では「らい病人シモン」が出てきます。四福音書を総合すると、“らい病人シモンとラザロは同一人物”の可能性が極めて濃厚です。とするなら病と死によって世間(社会)から(偏見と差別によって)完全に排除される辛い境遇にあったところが、イエス様の義憤による涙と叫びによって状況が一転し、再び生命が輝きを取り戻したのでした。その感謝の思いがマリヤの香油注ぎになりました。

◆結び…私たちも病と死の前で、手立てがなく、立ち尽くす他ない中にあって、イエス様の交わりを回復する力=復活力によって、必ず一歩を歩みだす希望の光が、暗やみのただ中に差し込んで来ることを信じます。諦めないで、道を塞いでいる石(固定観念)を取りのけて、野に放たれた小鳥のように新たな日々を自由に羽ばたけるよう主に祈ります。

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