Posted on 05/25/2025 at 20:21, by matsumoto

『“それにもかかわらず”の希望』(ユダヤ人キリスト者と共に ベ・フコタイ)(2025.5.25)

それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。(レビ記26章44節)

◆はじめに…私の職場は重症心身障害者の生活介護で、毎日“床上のキリスト(神の子)”に出会う思いで仕えています。すると、いろんなイエス様の姿が見えてきます。仰向けに大の字(十字架)になってぐっすり寝入っている者、両手を胸の前で組んでいる者。昼食後に午睡(昼寝)している者の顔を聖霊の風が撫でる光景が見えます。身体と心に「障害(=傷)」を抱える者を、殊更に愛しておられるイエス様の御心を感じます。「障害(=傷)」は罪の結果ではなく、神の栄光(御業)が現れる徴し(しるし)だと実感します。重症心身障害者同様、イエス様の愛は、私たち一人ひとりにも注がれています。誰一人としてそのイエス様の愛から漏れる者はありません。

◆復活のキリスト…そんなことを思い巡らしていて、ひとつの詩が心に浮かんできました。復活のキリスト/キリストは完全無欠の体ではなく、体の刺し傷を持って復活された/けれど人は言う。体の傷は分かりやすい。しかし(私の)心の傷は分からない、と/罪なき者が不当裁判で有罪判決を受け、十字架にて極刑に処された。どれだけ心が傷ついただろうか…/キリストは復活された。体の傷だけでなく、傷ついた心も内に抱いて/にもかかわらず、復活のキリストは、言う/あなたを愛すると/わたしの体と心の傷は、あなたの体の傷と心の傷なのだから。

◆それにもかかわらず…ところで今日のテキストのレビ記26章は、イスラエルの民の従順と不従順に対する神のさばきについて、です。常識的には、良い行い(功績)に対しては良い報いを、悪い行い(罪)には罰を与えると言った、“信賞必罰(しんしょうひつばつ)”で応じます。一見すると26章もはじめは、そのような内容で語られています。しかし結びのところに至って、親心が滲み出てきます。“それにもかかわらず”と。主は最初の祝福の約束(契約)を忘れたり、破棄される方ではありません。約束を成就して下さいます。

◆希望…イエス様が私たちにとっての希望です。主は存在し、主は私たちを気遣っておられ、主は信仰の父祖アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結ばれました。主は約束を与え、私たちがどれほど約束を破ったとしても、決して約束を破られることはありません。土の器に過ぎない私たちの内に希望の光を灯し、祝福の継承者としてこの世の生涯を導き、天の故郷に包み込んで下さいます。

◆結び…主の懐に抱かれて、新しい一週間の一歩一歩を、希望を持って共に歩めるよう祝福して祈ります。

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