Posted on 03/19/2017 at 21:27, by matsumoto

集会と活動のご案内

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイによる福音書11章28節)

どうぞ、お気軽に日曜日の礼拝にいらして下さい。お待ちしています。

《集会のご案内》

◇主日礼拝/日曜日 午後6時~7時半(現在スカイプ/nobuyuki matsumoto でリモート礼拝を行っています)

◇早天祈祷会/毎日 午前5時半~6時半

《教会活動のご案内》

◇キリスト教式結婚式・葬儀・記念会(自由献金)

◇訪問聖餐式・訪問礼拝(無料)

◇人生(霊性)相談/随時(電話および面談)(無料)

◇NPOアジアン・ブリッジ(アジアの子ども達への支援)

◇マザーテレサ写真展企画

お問い合わせは、

au 090-9935-7053

まで。

上記活動はすべて皆様の尊い献金によってなされています。感謝します。

なお、献金の送付先は以下の通りですので、よろしくお願いします。

ゆうちょ銀行
 
記号12110 番号346951
 
なまえ マツモト マツヨ
 
(他銀行からの振込みの場合
【店名】二一八【店番】218【預金種目】普通預金【口座番号】0034695)
Posted on 04/14/2024 at 19:39, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『光は救い』(新約に引用されている旧約 その84)(2024.4.14)

(…)わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする (イザヤ49章6節) /『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』(使徒13章47節)

◆はじめに…先週の水曜日の夜、大川キリスト教会の祈祷会に参加させて頂きました。み言葉の箇所は「イサクの誕生といけにえ」ということで創世記21章1節から22章19節でした。試練に直面したとき、み言葉に信頼して試練に立ち向かい、その結果、祝福される、というアブラハムの体験から、祈祷会の参加者一人ひとりの試練と祝福の証しを分かち合いました。大きな事故だったり、病いの試練を通して主が祝福して下さったそれぞれの証しから感動と励ましを受けました。

◆ユダヤ人の闇(迫害)を貫通して…今日のテキストの主題は「異邦人の光」です。パウロとバルナバは、聖霊に遣わされ、まず同胞であるユダヤ人に対して福音を語り(光を照らし)ました。しかし、ユダヤ人(の指導者層)は、光より闇を愛し、光を憎み、光のほうに来ませんでした(ヨハネ3章19-20節参照)。使徒の働き13章から本格的な異邦人伝道が始まったことが記されてありますが、その最初の出来事がローマの属州だったキプロス島の総督セルギオ・パウロが信仰にはいったことです。その後、パウロたちはピシデヤのアンテオケに移動し、会堂で宣教をする機会を得、大胆にイエス様の福音を語りました。いずれの場所においても、ユダヤ人の妬み、ののしり、迫害に遭いました。しかしユダヤ人が神のことば(福音)を拒んだことで、パウロらの異邦人伝道の歩みは加速していきました。かと言って主は、ユダヤ人(イスラエル人)をあきらめ、見放した訳ではなく、むしろ完全に救いに導くご計画を着実に進めておられることを、パウロはローマ書で語っています(ローマ11章25-28節参照)。

◆異邦人の光は…第一回伝道旅行で迫害に遭った際、パウロとバルナバは、今日のテキストの箇所を語りました。「『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」と。このみことばを聞いた異邦人は主を賛美し、信仰にはいり、一方でユダヤ人はパウロたちを地域から追い出し、益々、イエス様(いのちの光)を遠ざけました。

◆地の果て(底)まで救う…しかし、ユダヤ人がいのちの光なるイエス様を遠ざければ遠ざける程、異邦人は救われ、誰一人として主の愛からもれる者はなく、究極的にはユダヤ人も異邦人もすべての者が永遠のいのちに与り、とこしえにイエス様の愛のうちに生きる者となる、これが主のご計画に他なりません。

◆結び…新しい一週間も、主が御顔の光を照らしてくださることを感謝します。

Posted on 04/07/2024 at 16:19, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『わたしのほかに神はいない』(新約に引用されている旧約 その83)(2024.4.7)

(…)わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにいない。 (イザヤ45章21節) /そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。」(マルコ12章32節)

◆はじめに…先主日の夕方、名古屋に帰省した際、私たち夫婦とT姉とで会食の時を持ちました。お互いの近況報告と今後の歩みについて語り合いました。齢を重ね、身体も衰えていく現実を前にもがき、自分たちの弱さや愚かさを謙虚に認め、自分の思いや計画、あるいはサタンの策略ではなく、聖霊の満たしによって、主のご計画、導き、みことばに従うことで力が与えられ、希望が与えられることを確認し合う時でした。

◆主は唯一…今日のテキストの主題は「唯一の主(神)」です。主は、私たちの主であり、ヤコブの神、イサクの神、そしてアブラハムの神です。唯一無二の主であり、かけがえのない主です。そしてイエス様はおっしゃいました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」(マルコ12章27節)と。唯一の主は、復活の主であり、永遠のいのち、すなわち救いを与えてくださる主です。

◆神のものは神に…私たちを救い、永遠のいのちを与えてくださる主に、私たちは、どのようにお応えすれば良いのでしょうか? イザヤはこのように告げています。「わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」(イザヤ45章22節)と。「わたしを仰ぎ見よ」とは“わたしに顔を向けよ”という意味です。主は私たち一人ひとりと顔と顔を合わせて霊の交流を求めておられます。主の私たちに対する愛に対して、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして主を愛すること、礼拝することを通して、主から頂いたものを主にお返しすることで、益々豊かに聖霊に満たされ、生きる希望と力が与えられます。

◆隣人を愛する…主と顔と顔を合わせ、聖霊に満たされた私たちは、「自分自身のように隣人を愛せよ」(マルコ12章31節)と勧められるイエス様のみことばに励まされ、傷ついた者、倒れている者の傍らへと遣わされます。あるいはまったく逆に、迫害する者、倒そうとする者の傍らに置かれます。いずれにしても、主の愛に導かれ、具体的に手を差し伸べ、忍耐し、祈ります。

◆結び…唯一無二の神を愛し、かけがえのない隣人を愛すること。私たちと共に生き、この愛の両翼で天に向かって羽ばたき、また地上のすべてを包まれたイエス様に感謝します。イエス様の他に救い主はありません。

Posted on 03/24/2024 at 16:57, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『イエス様は支え照らす』(新約に引用されている旧約 その82)(2024.3.24)

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。 (イザヤ42章3節) /彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導きまでは。(マタイ12章20節)

◆はじめに…先週の水曜日、出張で南九州地方連合の年次総会に陪席し、恵愛園のアピールをしてきました。私の役割は、「障害」者の方々が心を込めて作った、ぞうきん、ドレッシングの商品のおすすめでした。持って行った商品はほぼ完売でしたので、主のあわれみと手に取ってくださった方々の優しさに感謝しました。

◆傷んだ葦を折らず、燻る燈心を消さない…今日のテキストの主題は「主のしもべの召命」です。そのしもべの使命は「いたんだ葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すこともない」(マタイ12章20節)です。葦は、新芽は食用として、茎はフェンス、風よけ、間仕切り、屋根、籠等々。またトーラーの巻物を書くためのペンだったり、オーボエやクラリネットなどの楽器のリードとして使用され、多様な用途があります。しかし、傷んだ(抑圧された)葦は、価値がなく、役に立たない事の代名詞になっています。また、燈心は亜麻でできたランプの芯で、光を発し、家の中や周囲を明るく照らし出しますが、ランプの油が切れかかると燈心が焼けて、黒い煤と匂いを発生し、燻って、役目を果たせなくなってしまいます。

◆金の燭台…約6年前に幕屋について学びました。聖所の中に金の燭台(メノラー)が置かれ、その光によって聖所内が明るく照らされ、祭司が主に近づき、祈りと感謝と和解のささげものの奉仕が行なえます。もし、メノラーの光が無ければ、聖所は真っ暗闇になり、奉仕はおろか、主に近づくことが出来なくなってしまいます。イザヤもマタイも人々の霊的状況が、まさにそれと同様の状態になっている、そう指摘しているのでしょう。いたんだ葦、くすぶる燈心になっていると。

◆主の僕なるイエス様…しかし、イエス様は、いたんだ葦、くすぶる燈心を折らない、消さないと預言されています。それが主のしもべなるイエス様の使命であり、私たちの福音です。つまりイエス様がメノラーの支柱となり、六つの枝(葦=カーネ)、すなわち不完全な私たちを支えてくださり、聖霊なる油を注いでくださり、創造の主に近づけ、親密な交わりの中に入れてくださいます

◆結び…イエス様は片手のなえた人(抑圧され疎外された人)の手を握り、真っ暗な穴から引き上げてくださるように、私たちの手を握り、支え、希望の光で道を照らし歩みを確かにしてくださいます。

 

〔毎日曜午後6時からのリモート礼拝に参加希望の方は事前に090-9935-7053へ電話連絡後、 スカイプ名 nobuyuki matsumoto にアクセスしてください〕

 

Posted on 03/17/2024 at 19:54, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『荒野に響くみことば』(新約に引用されている旧約 その81)(2024.3.17)

荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」 (イザヤ40章3節) /彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1章23節)

◆はじめに…今日の聖書テキストの箇所を、キング牧師は「私には夢がある」(I Have a Dream)という演説の中で引用しています。以前、いとすぎ教会開拓当初の礼拝に参加していた故ラーキンス久枝さんは、そのキング牧師の演説を直接聞いて、感動したと語っていました。そして私に「キング牧師のようなメッセージを語る人になってください」と言われました。今も後も、彼の“靴の紐を解くほどに及ばない”小さき者ですが、もし許されるなら、いつの日かそんなメッセージを語らせて頂ければと、それこそ夢は持っていようと思います。

◆荒野で叫ぶ声…今日のテキストの主題は「荒野で叫ぶ声」です。“荒野”は、高い山と深い谷、そして曲がりくねった道なき道、それは生命を拒絶する、あるいは、すべてを飲み込むような、困難で危険な場所でありその象徴です。そしてそれはまた、人々の内の荒んだ心の状態と言えます。その人々の生きる世のただ中で叫ぶ者だと、バプテスマのヨハネは自分自身を表しました。『主の道をまっすぐにせよ(整えよ)』と語り、悔い改め(生き直し)のバプテスマを伝えました。

◆救いに反して救いを…道をまっすぐにするために、山を崩し、谷を埋め、平らにする必要があります。心の中のでこぼこ、すなわち優越感、劣等感、差別意識、偏見、あるいは誤った正義感や知識を自覚し、それらを取り除く必要があります。別の言い方をすれば、今、自分が常識(あるいは救い)だと信じて疑わないことを手放す必要があります。今ある救い(だと思っているもの)を手放して真の救いに信頼する必要があります。

◆主の御声…ダビテは毎朝、目覚めてから「あなたの恵みを聞かせてください。行くべき道を教えてください。敵から救い出してください」(詩篇143篇8-9節)と主を仰ぎ、祈りました。同様に私たちも毎朝、イエス様を真っ直ぐ見て、イエス様に信頼して荒野の中を一歩踏み出したいと思います。イエス様を真っ直ぐ見るとき、主の御声が荒野に聞こえてきます

◆結び…「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を備え、荒地に川を設ける」(イザヤ書43章19節)

〔毎日曜午後6時からのリモート礼拝に参加希望の方は事前に090-9935-7053へ電話連絡後、 スカイプ名 nobuyuki matsumoto にアクセスしてください〕

Posted on 03/10/2024 at 17:20, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『真のコルバン』(新約に引用されている旧約 その80)(2024.3.10)

(…)「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている」 (イザヤ29章13節) /「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠くはなれている」(マルコ7章6節)

◆はじめに…昨日、私の勤めている恵愛園に入所している方の“朗読ボランティア”に出かけてきました。朗読本は、Iさんからリクエストのあった『苦界浄土(くがいじょうど)-わが水俣病』(石牟礼道子著)。現在Iさんは目が不自由で自身で読書することが困難なため、いつか『苦界浄土』を誰かに読んでほしいと願っていたそうです。昨日、朗読を聞いてIさんが「嬉しいです。久しぶりに読書の喜びを感じました」とおっしゃいました。その感想を聞いて私自身も、心が少し近づいたように感じ嬉しく思いました。

◆心はわたしから遠く…今日のテキストの主題は「心はわたしから遠く離れている」です。主は、ご自身が愛し、創造し、選ばれた民の心が、主ご自身から遠く離れていることを深く悲しまれました。その口で祈り、賛美するも、主の御心に届かない空言(そらごと)になっていると。それは神様を脇に置いての礼拝です。イエス様は、このイザヤの預言を引用して、パリサイ人と律法学者に向けて語られました。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いている」と。偽善者とは役者という意味です。主に対して空言を語る者は、人に対して神のことばを空文(=無効、破棄)にすると、イエス様が語られます(マルコ7章13節)。

◆コルバン…その一例として「父母を敬え」との律法に対して「“わたしがあなたを扶養すべき分は、ぜんぶコルバン、すなわち神への供えものにする”と言うなら、その人は父または母に対する義務を果たさなくてもいい」(マルコ7章11-12節/本田訳)と。つまり「神を敬う」ほうが最優先なのだから「父母を敬う」のは後回しで構わないというような人の理屈(口伝律法)が、まかり通っているとイエス様は指摘しました。これは「洗わない手でパンを食べる」ことを詰問したパリサイ人に対する問いかけにもなっています。人の理屈で神のことばを反故にする者に対してイザヤは「あなたがたは、物をさかさに考えている」(イザヤ29章16節)と語っています。“コルバン”の原意は“近づける”です。修復不可能なまでに遠ざかり、距離が出来てしまった神と人、人と人を再び近づける、真のコルバンはイエス様です。

◆結び…真のコルバンなるイエス様は今日も「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改め(向き直し)て福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と語られます。

 

〔毎日曜午後6時からのリモート礼拝に参加希望の方は事前に090-9935-7053へ電話連絡後、 スカイプ名 nobuyuki matsumoto にアクセスしてください〕

 

アーカイブ ログイン お問い合わせ