Posted on 08/26/2018 at 21:02, by matsumoto

『風穴を開けられるイエス様』主日礼拝メッセージ要約(イエス・キリストの生涯 その32)(2018.8.26)

 

 

そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――(ヨハネによる福音書4章9節)

 

  • はじめに…福祉あるいは介護をライフワークにしている者にとって、他者とどのように接するのか(あるいは接して欲しいのか)、ということは極めて重要な事柄です。その最も基本になるものが『バイステックの7原則』と言われるものです。バイステックは、他者がどのようなニーズを持っているのかを7つに分け、それぞれのニードに対する対応のあり方を提示しています。バイステックはロヨラ大学の教授であると同時にイエズス会の司祭でもあったので、7つの原則の着想の多くの部分は、聖書の記述、それもイエス様と人々との対話や態度、行動にあったことは想像に難くないでしょう。
  • もっとも安易な振る舞い…ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかった。――と、今日のテキストの箇所には記されています。ユダヤ人はサマリヤ人を避けていた訳です。これはイスラエル王国が南北に分裂(BC922)した後、北イスラエル王国にアッシリヤが侵入(BC734)、混血の民となり、サマリヤ人と呼ばれるようになり、純血を是とするユダヤ人(南ユダ王国)は、サマリヤ人を疎んじ、避けるようになったのです。その関係がイエス様の時代まで連綿と続いて来たのです。
  • イエス様の振る舞い…サマリヤ人とは口も利きたくないし、見たくもない、近くに寄りたくもない…。それがユダヤ人には当たり前だったときにイエス様は、サマリヤ人の婦人と接触しました。それは当時の常識を破るものでした。①公共の場で男性から女性に話しかけ、②しかもユダヤ人がサマリヤ人に話しかけ、③対価を払わずに水(必要なもの)を求めることは、非常識極まりないことでした。イエス様はこの世の常識ではなく、真実の生き方を示されたのです。
  • 結び…イエス様は、分け隔てすることなく、私たち一人ひとりと向き合い、対話し、親しく交わって下さいます。①私たちを一人の人間として接し、②肯定的な感情も否定的な感情もそのまま受け止め、③弱さを包み、④共感し、⑤裁かず、⑥決断を任せ、⑦秘密を守って下さいます。

 

Posted on 08/19/2018 at 21:01, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『サマリヤの女性』(イエス・キリストの生涯 その31)(2018.8.19)

 

わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。(ヨハネによる福音書4章14節)

 

  • はじめに…今夏は記録的な猛暑が続いています。飲料水も例年よりかなり売れているとか。水分、塩分の不足はいのちの危険に関わる問題です。イエス様は、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがない(ヨハネ4章14節)と言われます。それはGood-newsです。
  • サマリヤの女性との対話…旅の疲れで井戸のかたわらに座っておられるイエス様。そこへ一人の女性が水を汲みに来ます。そして「水を飲ませてください」(同7節)と声をかけます。しかし当時のユダヤ人の常識では、①ユダヤ人はサマリヤ人と親しくしてはいけない、②公の場で、男性から女性に話しかけてはいけない、という決まりがありました。ですからイエス様の行動は、女性にとって意表を突くものでした。また、女性が井戸に来た時間は、人々が来ない時間、つまり人目を避ける生活をしていたことが分かります。そのような女性に「わたしが与える水を飲む者は決して渇くことがない」と言われました。
  • 解放されたサマリヤの女性…女性は、この言葉にすぐさま「ください」と答えます。「だれでも渇いている者はわたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は心の奥底から生ける水の川が流れる」(ヨハネ7章37-39節)とイエス様は言われます。モーセ五書のみを聖書としているサマリヤの人々ですが、キリスト(メシア)が来られることは知っていました。イエス様は「わたしがそれだ」(ヨハネ4章26節)と、その女性に宣言されました。人目を避けて水を汲みに来なければならないこの女性の事情を見抜き、歩み寄って行かれたイエス様。そして一時しのぎの水の解決策ではなく、永遠のいのちの解放を示されました。最初は警戒していた女性も、次第にイエス様の言葉を受け入れていき、ついには最も大切だった水がめをその場に置いて、町の人々にイエス様のことを知らせるほどに変えられました。
  • 結び…私たちの人生もまた、サマリヤの女性と同様、問題や悩みは尽きることがありません。その都度、苦しみ、こころ痛め、途方に暮れます。そんな私たちにイエス様は歩み寄って下さり、「わたしのもとに来て飲みなさい、わたしが与える水を飲む者は決して渇くことがない。尽きることのない聖霊で満たそう」と言われます。解放された一週間となりますように。
Posted on 08/14/2018 at 20:58, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『無限の御霊の証し』(イエス・キリストの生涯 その30)(2018.8.12)

主日礼拝メッセージ要約『無限の御霊の証し』(イエス・キリストの生涯 その30)(2018.8.12)

割れた後、修復したオカリーナ

神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。(ヨハネによる福音書3章34節)

 

  • はじめに…昨日、大切なオカリナを落としてしまい、割れてしまいました。応急処置的に木工用ボンドで接着し、修復しました。果たして今まで通りの音色が出てくれるか…。
  • 土の器…私のオカリナは陶器でできた土の器です。聖書には人間も土から創られた土の器と記されています(創世記2章7節、Ⅱコリント4章7節)。その中に“いのちの息”が吹きこまれて生きる者となったのです。また、その中には“宝”が入れられているのです。土の器は脆(もろ)く弱いのです。しかし創造の主は、あえて私たちをそのようなものに創り、その中に永遠のいのちを託され、使命(証し)を託されたのです。
  • 土の器をまとわれたイエス様…イエス様は聖霊によって母マリヤより生身の人間として、つまり土の器をまとって生まれました。そして公生涯のはじまりのとき、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受け、聖霊が鳩のように下り「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と天から声がありました(マタイ3章17節)。その後、十字架に掛かられ、「父よ。わが霊(聖霊)を委ねます」(ルカ23章46節)と叫び、息を引き取り、復活し「約束のもの(聖霊)を送る」(ルカ24章49節)と昇天され、事実ペンテコステのとき、聖霊が使徒たちに降りました(使徒の働き2章1-4節)。イエス様は聖霊を宿し、聖霊を送られ、聖霊と自由闊達に交わっていました。まさに測ることのできない“無限”の聖霊の働きがありました。
  • みことばへの信頼…イエス様と聖霊の関係は無限ですが、私たちと聖霊の関係は部分的です(Ⅰコリ12:8-12)。部分と部分が補完しあってひとつのキリストのからだを形作ります。お互い欠けたもの同士が、ともに主のみことば(聖霊のことば)に信頼するとき、喜びに満たされます。そのもっとも象徴的な関係が花婿と花嫁の関係で、表わされています(ヨハネ3章29節)。バプテスマのヨハネは、その婚姻関係の成立をともに喜ぶ友なのだと、証ししました。そこに主ご自身の臨在の栄光が顕れれ、いのちの光が輝き照ります。
  • 結び…神のことば、聖霊のことばを語られる主イエス様に信頼し、主の臨在が顕れる一週間となるようお祈りします。
Posted on 08/06/2018 at 09:19, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『ニコデモの訪問』(イエス・キリストの生涯 その29)(2018.8.5)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネによる福音書3章1-16節)

  • はじめに…今日から第100回全国高校野球選手権記念大会が始まります。大きな節目の大会。球児たちの健闘を祈ります。父なる神は、私たちに愛というボールを投げられます。それを私たちが受けて(信じて)打つ(感謝する)なら、それはまさにホームラン。私たちは永遠のいのちという勝利を得るのです。父なる神が投げられたボール。それはイエス様の十字架という愛です。
  • ニコデモの訪問…ユダヤ人の指導者であるニコデモは、自分の立場を考えたのでしょう。人目を忍んで<夜>、イエス様を訪ねます。そのニコデモにイエス様は、直球を投げられました。「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。これはニコデモにとって理解しがたいことです。「“ユダヤ人であれば必ず神の国に入れる”と学び、そして教えている。ユダヤ教の律法に示されている新生はすべて終えている。さらに『新しく生まれなければ…』とは一体、何を言おうとしているのか」。そこでニコデモは「もう一度、母の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。ニコデモ、第一打席空振り三振です。
  • ただ十字架によって…さらにイエス様は直球を投げられます。「水と霊によって生まれなければ神の国に入れない」(エゼキエル36章25-27節)「知っていることを話し、見たことを証ししているのに受け入れない」「御子を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つ」。かつて荒野で木に架けられた青銅でつくられた蛇を見上げた者はいやされた(民数記21章8-9節)ように、木(十字架)に架けられたイエス様の愛を受けとった者は生きるのです。「どうして?」とニコデモ。ユダヤ人も異邦人もなく、ただイエス様の十字架の愛を受け、感謝するだけで良いのです。事実、イエス様と一緒に十字架に架けられた人は、そのさなかにイエス様の愛を受け取り、神の国に招かれました。
  • 結び…またしてもニコデモは見送りの三振です。しかしイエス様が十字架に架けられた時、はっきりとイエス様の愛に気づき、受け取りました。それ以後、ユダヤ人のコミュニティからは外されましたが彼は心底、愛して下さる神の愛によって永遠のいのちに生きました。場外ホームラン。父なる神はイエス様を十字架に架けてまで、私たちを愛して下さっていることを表わして下さいました。そして、その愛を受け取る人は、ユダヤ人、異邦人の区別なく、ひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つのです。愛の神は名ピッチャーです。
Posted on 07/22/2018 at 21:23, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『宮清め』(イエス・キリストの生涯 その28)(2018.7.22)

 

それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。(ヨハネ2章13-22節)

  • はじめに…問題や出来事の渦中にある時には分からない(見えない)事も、時が経って、その意味を理解する事ができるようになりま す。宮の商売人たちへの怒りの言動、またそれを見ていたユダヤ人たちの質問に対するイエス様の返答、このただ中にいた弟子たちは、イエス様の十字架と復活を見た後に、この出来事や対話の意味を悟り、理解しました。私たちはさらにその後、将来の聖書の約束を見てはいませんが、知っています。それは死んだ者のように生きる人生ではなく、永遠のいのちを得た者として生きる人生です。怒ってでも気づかせようとするイエス様の必死の愛を受けとる人生です。
  • 聖書の預言の実現…イエス様が神殿に行かれたことは、マラキ書3章1-3節で語られていました。また弟子たちが聖書を想い起したのは詩篇69篇9節でした。ここでは礼拝は見せかけや形ではなく真実なものでなければならないこと、また、信仰のない者に迫害を受ける、まさにメシア・イエス様の姿が語られています。宮で商売をしている人、またそれを買う人、そして商売をするための場所代を取っている祭司長やその家族、それらの人々の心に対してイエス様は怒りを表わされました。真実な礼拝は形ではなく心です(ヨハネ4章24節)。私たちが捧げるものは死んだ動物ではなく、生きておられ愛して下さる主の愛を受けとる心です。
  • ユダヤ人の求めるもの…宮で大暴れしているイエス様に「そのような事をするからには、それなりの権威を持っているのか、それを見せてみろ」と詰め寄ります。それに対してイエス様は、たとえを用いてご自身の十字架と復活を語られます。しかし誰も、そのたとえの意味を理解できませんでした。弟子たちもまた同じでしたが、この後、実際にイエス様の十字架と復活を体験し、理解しました。
  • 結び…イエス様の怒りの言動に戸惑う人もいるかも知れません。しかし形だけで心のない礼拝(生活)、そこにはいのちがありません。イエス様は、いのちを与えるために、私たち一人ひとりを訪ねて来て下さいました。「生きよ」と叫ばれます。イエス様の宮での怒り、それは死んだ者(心)を生かそうとする必死の愛の姿です。
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