Posted on 01/13/2025 at 11:53, by matsumoto

『わたしはあなたとともにいる』(ユダヤ人キリスト者と共に シェモト=名前)(2025.1.12)

(…)モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。(出エジプト記2章11節)

◆はじめに…年末年始に名古屋に自家用車で帰省し、往復で約30時間、走行距離約1700キロの大移動となりました。事故やトラブルがなかったことは、主の恵みでした。一方、北陸地方は現在も大雪に見舞われ、除雪作業で大変な状況が報道されています。被災者の方々に主のお守りがあるよう、祈ります。

◆放っておけない…昨日、『新プロジェクトX〜挑戦者たち〜 能登輪島炊き出し10万食〜地震と豪雨 地元を支えた食の力〜』を観ました。地元で被災した飲食店経営者などが声かけあって、自らの事はそっちのけで、地域住民のために炊き出しをして生命をつないだ番組でした。その他にも、地元在日本大韓民国民団石川県地方本部の方々や、MISIAなどのアーティスト、そして、かつて自らも被災を経験した他地域の方々が、地震と豪雨の二重の災害に見舞われた能登半島の被災者の支援に現在も関わり続けています。これらの方々は、苦しんでいる人々のことを放っておけず、突き動かされるように体が動いてしまっているのでしょう。

◆私は何者?…本日から出エジプト記からみことばを学びますが、今日の聖書のテキストに「モーセがおとなになったとき」とあります。使徒の働き7章23節によれば、この時モーセは40歳でした。モーセは生まれてすぐパロの娘に引き取られて王宮で育てられました。血筋はヘブル人ですが、育ちは完全にエジプト人です。王子としての地位もあり、正義感の強い性格もあり、エジプト人から打たれているヘブル人の苦役を見て、いたたまれなくなり、エジプト人を打ち殺してしまいました。翌日には、ヘブル人同士のけんかの仲裁に入ったものの、思わぬ言葉を同胞から掛けられ、ミデヤンの地へ逃げる結果に。そこで長らく羊飼いとして暮らしていたところ、燃える柴の中から主の声を聞くことに。そこで主から使命を託されます。「わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」(出エジプト3章10節)と。あの忌まわしい記憶の残る地へ? この時モーセは80歳。このままミデヤンの地で一介の羊飼いとして穏やかに暮らすこともできたでしょう。正直、モーセは「私にはもう、関係無いんじゃないですか?」あるいは「無理でしょう?」という思いがあったのではないでしょうか? そんなモーセに対して主は、使命を果たすよう、みことばで励まされました。「わたしはあなたとともにいる」(同12節)と。みことばでモーセは奮い立ちました。

◆結び…「わたしはあなたとともにいる」と語られる主イエス様が、私たち一人ひとりに新しい2025年に果たすべき使命を示しておられます。

Posted on 01/05/2025 at 21:43, by matsumoto

『祝福と赦しの家族』(ユダヤ人キリスト者と共に ヴァ・エチ=生きた)(2025.1.5)

あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。(創世記50章20節)

◆はじめに…新しい主の年2025年、明けましておめでとうございます。昨年は日本においても、私たち個々人においても波乱の幕開けとなりましたが、このように新年最初の礼拝を共に捧げられ感謝です。これも主の恵みと憐れみの他、何ものでもありません。今年もますます主に信頼して、共に一歩一歩、生ける主の証しを立てて歩ませて頂きたいと願っています。いとすぎキリスト教会が「神の家族」として主の祝福と赦しの源流になるよう、祈ります。そのような思いから2025年の年間主題を『神の家族-祝福と赦し』とさせて頂きました。

◆家族…主題聖句は創世記の最後の章の一節からです。ある本が何について書かれているかは、その終わり方を見ることで理解できます。創世記は天地創造から書き始められていますが、それに終始している訳ではありません。天地創造は私たちが生きる上で必要な周辺環境の整備です。その主が用意して下さった環境の中で、私たちがどう生きるかが、最重要テーマです。最終的にはアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてエジプトにおいてすべてを手に入れたと言っても過言ではないほどの地位に登りつめたヨセフへと引き継がれてきたものは、土地、国家、政治、経済、権力、富の蓄積ではなく“家族”です。創世記のメインテーマは、無から有を生み出す創造主の力を、選ばれた民が手にすることではなく、“家族”についてです。“家族”から、私たちが一緒に生きることが始まるからです。

◆祝福と赦し…以外にもアブラハムがその子、イシュマエルとイサクを祝福したという記録はありません。イサクはエサウとヤコブを別々に祝福しています。ヤコブは死の床で、息子たちを枕元に一同に集めて祝福しています。併せてヨセフの子ら(ヤコブにとっては孫)も祝福しました。ヨセフは兄弟らを赦しました。彼らが危害を加えようとしたことを、「神が善を計ったのだ」と出来事を再構築しました。父親が生きている間は、息子らは家族内で復讐をしないというのが当時の原則でした。父親が亡くなったら…。ヨセフは不安な彼らに直接語り、彼らを安心させます。「あなたたちは私を傷つけようとしたが、神はそれを善とされた」と。創世記は世界の創造についてではなく、家族の対立をどう扱うかについて書かれています。家族は対立を乗り越え、祝福と赦しの現場です。イエス様は神の家族として弟子たちと寝食を共にし、赦しと祝福を与え、今を生きる私たちに赦しと祝福の家族を築くよう、指針を示して地上生涯を終え、昇天されました。

◆結び…主イエス様が私たちに託された、赦しと祝福に満ちた神の家族を築く主の年2025年となるよう、心より祈ります。

Posted on 12/29/2024 at 22:04, by matsumoto

『離れ近づく』(ユダヤ人キリスト者と共に その14)(2024.12.29)

すると、ユダが彼に近づいて言った(…)どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。(創世記44章18-33節)

◆はじめに…本主日で2024年の礼拝は最後となります。一年間、それぞれ離れた所にありながらも、共にリモートでの礼拝を捧げられたこと、心から主に感謝するとともに、皆さんお一人ひとりに感謝します。主の愛は一千キロどころか、二十億光年をも包み込み、満たします。

◆坊主憎けりゃ袈裟まで憎い…障害者に関わる仕事の中で、様々な障害の方との出会いがあります。誰一人として同じ方はなく、多様です。その中で、最近お話を聞かせてもらった方は、統合失調症の方でした。その方がおっしゃるには「色柄の服が私に向かってマイナスのメッセージを送って来るんです」と。プラスのメッセージは聞こえて来ないそうです。“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”的な精神状態から来るものかも知れません。ヨセフに対する兄弟達の反応も、まさにそれと同様でした。ヨセフはヤコブの寵愛(ちょうあい)を受け、立派な仕立ての服を誂(あつら)えて着せてもらっていました。兄弟達にとって、その服を見る時、「自分達は父ヤコブから愛されていない」とのメッセージを読み取り、ヨセフに対して憎しみとともに殺意を抱きました。この状況は、お互いを不幸にします。

◆距離と近さ(分離と結合)…ヨセフの兄弟達は、ヨセフと距離を取っていました。一方、父ヤコブはヨセフを近くに置いてある意味、一心同体のように接しました。これらの兄弟関係、親子関係が、イスラエル一族の不和の原因でした。心理学に「ヤマアラシのジレンマ」というのがあります。近づき過ぎると怪我をし、離れ過ぎると凍えてしまう。相手を支配、独占するのではなく、また無関心、無視するのでもなく、お互いを尊重し、敬意をもって接することでより良い人間関係が築けるということです。人間関係には適度な距離感(間隔)が必要だと言う話です。

◆神様と私たちの関係…創造主なる神様と私たちの関係も、適切な距離感が大切です。近過ぎると私たち自身が神(救世主)になり代わり、離れると放縦になり神を神とも思わなくなり、罪を罪とも思わなくなってしまいます。そのバランスを取って保って下さるのが聖霊様です。私たちを「聖」(分離)として下さると同時に霊の「交わり」(結合)を創って下さいます。まさしく“炎のような別れた舌がひとりひとりの上にとどまった”聖霊降臨のイメージです。

◆結び…今年2024年も残すところ、あと二日となりました。聖霊様の導きによる出来事と隣人と出会いの中で、イエス様の愛の御業を体験し、証しで締めくくる年末となるよう、祈ります。

Posted on 12/22/2024 at 22:24, by matsumoto

『祈り、夢、行動』(ユダヤ人キリスト者と共に その13)(2024.12.22)

「ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。(創世記50章21節)

◆はじめに…本主日アドベント第四主日は「マリヤのキャンドル」です。マリヤが主の御言葉を受け入れ、御子イエス様をその胎に宿した、その従順、謙遜を象徴するキャンドルです。マリヤ自身、「ひどくとまどって(…)」(ルカ1章29節)と、心の葛藤を覚えつつ、「おことばどおりこの身になりますように」(ルカ1章38節)と、御使いのメッセージを受け入れました。ことばを耳で聞いて真の生命を懐妊した、科学の域を超える霊的な事柄です。これは自らのいのちを主に預ける覚悟、信仰による決断です。誰一人信じてくれそうもない出来事を、身体丸ごと受け止めた歴史的事実(真実)なのです。今日は『祈り、夢、行動』と題して、聖霊の導きに従って歩むことについて、共にみことばに聞いていきたいと願っています。

◆熱心に捜される主…使徒信条第3項「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ」のヘブル語訳の使徒信条もありますが、その「聖霊により宿り」のところを日本語に訳すと「聖霊によって熱心に捜し求められた」となります。マリヤを熱心に捜し求められた主は、世に惑わされ、迷える私たち一人ひとりをも熱心に捜し求め、神の国の民(=わたしの民)として回復してくださるお方です。私たちの国籍は天にあります(ピリピ3章20節)

◆ヨセフの祈り…マリヤが身重になったことが明らかになったとき、ヨセフは「内密に去らせようと、思い巡らした」と聖書は記します(マタイ1章20節)。この「思い巡らす」という言葉は70人訳聖書(ギリシャ語)の創世記6章6節で用いられています。アラム語では慰める・(死者を)よみがえらせる」です。ですから「思い巡らす」というのは、慰めと回復を祈る祈りと言えます。

◆夢見るヨセフ…祈りながらヨセフは夢を見ました。「妻マリヤを迎えなさい(…)生まれる子の名をイエスと付けなさい。民を罪から救ってくれる」(マタイ1章20-21節)と、み使いに告げられました。新約のイエス様の父としてのヨセフと旧約のヤコブの子ヨセフの共通点は、夢見る者だということです。また常識的には明らかに好ましくない状況、出来事を前にしても受け入れ、騒がす、静かに祈り、主の御声を聞き、即座に実行する。イエス様ご自身の姿もそうでした。苦難の中にあっても受け入れ、騒がず、ひとり静かに祈り、みこころを行ないました。

◆結び…今年2024年も残すところ、あと一週間余りとなりました。聖霊様の導きによる出来事と隣人と出会いの中で、イエス様の愛の御業を体験し、証しする年末となるよう、祈ります。

Posted on 12/15/2024 at 20:47, by matsumoto

『救いの出来事』(ユダヤ人キリスト者と共に その12)(2024.12.15)

あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。(創世記37章5節)

◆はじめに…私たちはアドベントの時、イエス様の降誕を旧約のアブラハムにまで遡り、創造主の人類救済の愛の物語(御業)を振り返りつつ、その約束が確かなことを覚えます。今日は第三アドベントで「バプテスマのヨハネのキャンドル」です。

◆荒野で叫ぶ声…バプテスマのヨハネは、救い主なるイエス様を世の人々に、いち早く証しました。荒野で悔い改めのバプテスマを授け、多くの弟子を持っていたヨハネは、自己アピールでも自己承認でもなく、主イエス様を指し示し、主の顕れを人々に備えることに徹していました。自らを「キリストではない」「エリヤでもない」(ヨハネ1章20、21節)と、自分はただ脇役として「荒野で叫ぶ声」だとしました。その歯に衣を着せぬ言い分は、ヘロデヤの恨みを買い、首をはねられ亡くなりました(マルコ6章14-29節参照)。しかしその声は今も荒野で響き続けています。昨日、NHKのEテレで『こころの時代』の再放送でカソリックの修道士、小崎燈明さんが取り上げられていました。17歳の時、長崎で被爆し、自ら怪我はなかったのですが、助けを求めて足にしがみつく少年を置き去りにしたりしたそうです。そこで自らの本性「助けない」「逃げる」「赦さない」を突き付けられたと言います。

◆夢を告げるヨセフ…ヨセフは、自身の見た夢を、何の遠慮もなく、兄たちに語りました。ヨセフのたばねた束に、兄たちの束ねた束がおじぎをするという夢でした。それは兄たちにとっては屈辱的に聞こえ、ヨセフに対して憎しみを抱き、殺意にまで膨らみました。この夢によって、ヨセフはエジプトに売られ、濡れ衣を被せられ、監獄に入れられ、忘れられ、一縷の希望も潰えたかのようになりました。しかしこのどん底からヨセフの人生は一転しました。パロの夢を解き、総理大臣の地位に抜擢され、全世界的な飢饉の時に、兄たちが食糧を求めてヨセフのいるエジプトへやってきました。様ざまなやり取りの後、ヨセフは自らを兄たちに明かし、穴に突き落とされ、エジプトに売られた一連の出来事は、主がいのちを救うための出来事だったとし、責めたり、断罪したりせず、許しました。

◆人となったことば…ヨセフがエジプトに売られる出来事をある意味、決定づけた出会いがあります。創世記37章15節に“ひとりの人”が現れます。ヨセフとこの人との出会いがなければ、ヨセフは穴に突き落とされ、エジプトに売られる出来事は起こらなかったでしょう。私たちの人生にも、その時には意識もせず、些細な、しかし大事な“ひとりの人”との出会いがあるのではないでしょうか?

◆結び…私たちの人生にとって最も大切な“ひとりの人”はイエス様です。

 

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