Posted on 09/24/2023 at 08:27, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『宮離れ』(新約に引用されている旧約 その64)(2023.9.24)

それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし(…)(詩篇69篇9節) /弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。(ヨハネ2章17節)

◆はじめに…本主日24日(日)の礼拝で、原島を拠点としたリモート礼拝は最後になります。次回からは柳川を拠点としてのリモート礼拝になります。礼拝堂を持たない、いとすぎ教会の礼拝は、場所に縛られないので本当に自由です。礼拝し祈り賛美する一人ひとりが神の家、聖霊の宮であることを心底、実感できることは幸いです。

◆大贖罪日(ヨムキプール)…ところで、本日の日没から「大贖罪日」(ヨムキプール)になります。ユダヤ教徒は、毎年、贖罪日にはシナゴーグに集まり、断食と祈りに専念します。断食は「他の誰とも変わらない人間であることを証明するため」にするのだとラビ・ハロルド・S・クシュナー氏は言います。不完全で間違いの多いありのままの存在として神様の前に出ることです。そして「コールニドレイ(すべての誓い)」という祈りを唱えます。

旧約時代には、大祭司が年に一度、贖罪の日に神殿(幕屋)の至聖所に入り、全イスラエルのための罪を贖う血を主にささげて、民が犯したすべての罪の赦しを得ていました。つまりユダヤ人にとっては、贖罪の有効期限は一年間なのです。しかしイエス様はご自身を一度、贖いとしてささげ、永遠の和解を成就されたのです(へブル人への手紙10章10節参照)。

◆宮きよめ…本日のテキストの主題は、イエス様が過越の祭りの際、異邦人の庭から商売人や両替人を外へ追い出し「わたしの父の家を商売の家(強盗の巣)としてはならない」と語ったことから「宮きよめ」とされています。このイエス様の義憤と、それに伴う振る舞いを見た弟子たちは、詩篇69篇9節の「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」のみことばを思い起こしたのでした。

◆熱心/熱情/嫉妬/献身…「熱心(Zeal)」と新改訳聖書で訳出されているところを、①「熱情(Passion)」②「嫉妬(Jealousy)」そして③「献身(Devotion)」と訳出している聖書があります。どの訳もなるほどと納得できますが、最後の「献身」の訳を基に大胆に意訳すると「あなたの祈りの家への献身が、私の自我を滅ぼし、聖霊が百パーセント支配するようになる」となります。

◆結び…礼拝の場所が問題ではなく、復活のイエス様の臨在と聖霊様の恵みによって「霊と真理(聖霊様とイエス様)」(ヨハネ4章23節参照)によって父なる神に礼拝を捧げられる時が来ていることを感謝します。

Posted on 09/17/2023 at 08:26, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『与えるために受けられた』(新約に引用されている旧約 その63)(2023.9.17)

あなたは、いと高き所に上り、捕われた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられました。(詩篇68篇18節) /そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」(エペソ4章8節)

◆はじめに…昨日の夜中、眞津代牧師がカビアレルギーの症状が出て、眠れなくなってしまいました。しばらくして症状が落ち着いた後、夜空を見上げると、三つの星が明るく輝いていました。“夏の大三角”と呼ばれる星座です。創世記によれば、星が創造されたのは第4日目。ですからその創造の光景をそのまま見たことになります。闇夜に輝く星に希望と恵みを感じながら、朝まで休みました。

◆ユダヤ暦の新年…さて、先週の15日(金)の日没(新月)から、ユダヤ暦における新年(5784年)が始まりました。次の満月(29日(金)の日没)には仮庵の祭り(スコット)を迎えます。聖書の記述(主にルカ福音書)を総合すると、イエス様が実際にお生まれになったのは、この仮庵の祭りの時期だったことが分かります。ですから、このユダヤ暦の新年から仮庵の祭りのこの時期に、天地創造の出来事と、イエス様がこの世に遣わされたことに思いを馳せることは意義深いことです。

◆賜物…本日のテキストの主題は、この世に遣わされたイエス様が地上生涯をまっとうした後、昇天されたイエス様が、私たちを含め、人々に賜物(カリスマ(ギリシャ語)/ギフト(英語))を与えられたということです。賜物は極めて多様です。私たち一人ひとりの個性にふさわしく、創造主なる父なる神様からイエス様に託され、恵み(カリス)として私たちにすでに贈られて手元に届けられているのです。その贈り物を喜んで(カーラー)受け取ることをイエス様は望んでおられます。

◆与えるために受け取られた…詩篇に「人々から、みつぎ(賜物)を受けられた」とあるところを、パウロは大胆に「人々に賜物を分け与えられた」とまったく逆に解釈して伝えています。しかし、そのことから浮かび上がる福音のメッセージは、イエス様は与えるために受け取り、受け取った結果として賜物を与えてくださるのです。イエス様は人々から良きものを受け取られたのでなく、 “霊的な敵対者の持てるもの”つまり、罪、肉の世、死、墓の支配権と権力、すなわち悪しきものをすべて、丸ごと受けられたのです。そして愛、聖霊、復活のいのち、天の御国、イエスご自身を贈り物として与えて下さっています。

◆結び…父なる創造主が義によって世界を創造され、愛によってイエス様がこの世に受肉され、賜物を与えてくださる聖霊様の“恵みの大三角(三位一体)”を共に喜びたいと思います。

Posted on 09/10/2023 at 07:34, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『義と罪を包む尊い方』(新約に引用されている旧約 その62)(2023.9.10)

善(טוֹב/ἀγαθόν)を行なう者はいない。ひとりもいない(詩篇53篇3節) /義人(δίκαιος)はいない。ひとりもいない(ローマ3章10節)

◆はじめに…朝は涼しい風が吹き、夕はコオロギたちの鳴き声が聴こえて、日に日に秋の気配が深まってきました。秋は祭りの季節でもあります。イスラエルでは秋に新年を迎えますが、今年は9月15日の日没から新年(ローシュハシャナー)を迎えます。新年に続いて9月24日の日没から贖罪日(ヨムキプール)、そして9月29日の日没からユダヤ三大祭りのひとつ、仮庵の祭り(スコット)を迎えます。

◆贖罪の日…イスラエル(ユダヤ教)では贖罪の日には、一年分の罪の赦しを乞う日とされています。そして普段はシナゴーグ(ユダヤ教の教会)に通っていなくてもこの日だけはシナゴーグに足を運びます。この日、全ての会社・商店は休業、公共交通機関も完全にストップ。空港も閉鎖さ、テレビ・ラジオ放送もストップします。「食事もせず、何もせず一日家で静かに過ごすヨムキプールは、自分を見つめ直す機会。去年一年間の自分の行いを振り返り、反省し、どのようにしたら自分が向上できるかを真剣に考える。こうして新しい年に向けたパワーを蓄える」多くの人々は、そのような日として贖罪の日をとらえて過ごすようです。一方、日本文化、習慣のなかで生活している私たちは、自らの過去の振る舞いを全国民的に振り返る機会は皆無です(教会においても)。ですから「義」「罪」ということを考え、意識化することは難しいのでしょう。

◆義人と罪人…パウロは「義人(正しい人)はいない」と宣言しています。つまり、すべての人間は罪人だと。「義人」と「罪人」は、相対概念です。ですから自らを「義人」と自任したパリサイ人や律法学者は、他者(特に異邦人)に対して意識的、無意識的に「罪人」のレッテルを貼りました。私たちも同様です。

◆尊い方(義なる方)は、神おひとり…そのような者に対して、イエス様は、否を宣言し(ルカ18章9-19節参照)、振る舞いました。罪人のレッテルを貼られた人々、取税人や遊女と食事をし、交流し、病人を癒されました。この世において生産性の無い者、法を守れない境遇に追いやられた者など、「罪人」とレッテルを貼られ、差別、抑圧され、失われた尊い生命の現実があります。神によって“良し”とされ、この世に生かされている尊い生命が、人によって損なわれている。イエス様は、その関係が損なわれている生命を回復するために働かれました。

◆結び…すべての被造物は、創造の主によって創造され、“良し(トーヴ)”と宣言されています。すべては良い方(義なる方)との関係において“義”なのです。イエス様は今日も、失われた人(生命)を捜して救おうと働かれています。

 

Posted on 09/03/2023 at 07:01, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『ほふられた羊』(新約に引用されている旧約 その61)(2023.9.3)

だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。(詩篇44篇22節) /「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。(ローマ8章36節)

◆はじめに…先週は、新たな住居の内覧と、新たな勤務先での面談に出かけてきました。その道中、二人の方との出会いがありました。一人は認知症であろう老婦人と、もう一人は心身に障がいを負っている中年女性でした。偶然の出会いでしたが、何かしら今後の私たちの歩みを暗示するかのように感じました。

◆脱穀…ギリシャ語で「患難」とは、「外からの圧力」を意味します。重荷を負っている人の状態に使われます。今の瞬間、何らかの重荷、病気、貧困、死別などの外からの圧力(重荷)を受けている人がほとんどでしょう。また、ラテン語では「脱穀」を意味します。私たちの経験する苦難は、重い鞭で打ち叩かれるようなものです。しかし、その苦難は藁ともみがらだけを失うようなものです。忍耐の後、不必要なものは取り除かれ、輝きが現れ、希望が生まれます。今、嵐の中で、「助かる最後の望みも今や絶たれようとしている」(使徒の働き27章20節参照)状態かも知れません。それは今、主にすべてを明け渡そうとしている“ほふられる羊”状態です。

◆ほふられた羊…しかし今、ほふられ、死んで復活し、神の右におられるイエス様は、私たちのために執り成しの祈り(ローマ8章34節)をし「あなたがたは助かる」「髪の毛の一本も失われることはない」と、将来を確約してくださっています。「恵みは十分」「わたしの力は弱さのうちに完全に現われる」(②コリント12章9節)とパウロに語られたように、私たちにも語られます。

◆イエス様の愛…私たちのイエス様に対する愛が強いのではなく、イエス様の私たちに対する愛が強いのです(①ヨハネ4章10節参照)。35、36節の状態の中にある私たち自身の力はあまりに弱いのです。その弱さをご存じのイエス様だけが、充分にこれに打ち勝つ力があるのです。イエス様の愛から私たちを引き離すものはだれにも、何にも、ありません(ローマ8章9節参照)。

◆結び…私たちには多くの患難があります。暴風(ユーラクロン)が吹き荒れます。万事休す、絶体絶命。そのただ中で、ほふられた羊なるイエス様はときに直接に、ときに御使いを遣わして語られます。「恐れてはいけない」「元気を出しなさい」(使徒の働き27章24、25節参照)。

Posted on 08/19/2023 at 23:03, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『足を洗うイエス様、かかとを上げたユダ』(新約に引用されている旧約 その60)(2023.8.20)

私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。(詩篇41篇9節) /わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。(ヨハネ13章18節)

◆はじめに…先週金曜日、家内が名古屋から帰って来ました。隣に住む方も家内の帰りを歓迎してくれました。約1カ月半にわたる単身生活は終わり、再び夫婦二人三脚、イエス様も一緒ですから三人四脚の生活が再スタートしました。一人暮らしで、家計のこと、炊事洗濯掃除買い物の日常生活の大変さを経験したことで、今後の家庭生活の幅が拡がるのでは、と感じています。

◆かかとを上げたユダ=アヒトフェル…今日のテキストの詩篇41篇の背景は、ダビデ王に反旗を翻した息子アブシャロムに組みしたアヒトフェルが、アブシャロムに進言したダビデ王殺害計画があります(②サムエル記17章2節)。アヒトフェルはダビデの議官をしており、ダビデの信頼を得ていました。ダビテ王に対する裏切りです。しかし、その計画は失敗に終わり、彼は首をくくって自死しました(②サムエル記17章23節)。つまり、詩篇41篇9節の親しい友とはアヒトフェルを指し、この詩篇を引用したイエス様は、今まさに自身を売ろうとしているユダの振る舞いの予型だと示しているのでしょう。確かにユダはイエス様に“かかとを上げた”のです。しかし自身の行ないを“後悔”し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返そうとしたことがマタイ27章4節に記されてあり、かかとをイエス様に対して振り下ろすことはなかったと言えます。ただ残念なことにユダは自分自身に、かかとを振り下ろし、自死しました。自分で自分を裁き、罰したのです。

◆裏切っても自死してもなお…イエス様は、繰り返し「互いに愛し合いなさい」と語られ、愛を具体的にあらわすべく、弟子たちの足を洗われました。そして食事を共にしました。たとえ裏切ったとしても、自死したとしても、あなたの尊厳が損なわれることは決してない、わたしがあなたを包み込んでいる、そう復活のイエス様は語られ、祈られているのではないでしょうか。

◆結び…イエス様は、私たちの足を洗ってくださいます。食卓を共にしてくださいます。愛し、赦し、包み込んでくださいます。イエス様のみこころに促され、私たちも互いに愛し、赦し、包み込んで生きる日々であるよう祈ります。

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