Posted on 08/12/2024 at 07:16, by matsumoto
主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。(ヨナ1章17節) /ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に人の子も三日三晩、地の中にいるからです。 (マタイ12章40節)
◆はじめに…約2カ月の療養を終え、月から職場復帰してほぼ十日が経過しました。以前のような心身の不調はなく、病の嵐は過ぎ去った感があります。本当に主は耐えられない試練には遭わせられず、脱出の道を備えてくださる方です。
◆人生の嵐…さて今日のテキストはヨナ書とその引用をしているマタイ福音書です。主人公はアミタイの子ヨナ。アミタイは“ヤハウェは真実”で、ヨナは“ハト”ですから、「決して裏切らない主から託された役割、使命を忠実に果たす者」というのが名の意味です。しかしその名に込められた役目に反発するように、主から「行って預言を語れ」と言われたニネベ(アッシリヤ=現在のイラクの首都)には行かず、反対方向のヨッパへ、しかも海を渡ってタルシシュ(現在のスペイン南部地方)へ。しかし船に乗ったところで大嵐に見舞われました。主は聖霊の風で私たちの歩みを後押しして下さるお方ですが、逆に足止めされることもあります。
◆海の深みへ…嵐に止まらず、海の深みに放り出され、自分の力ではどうすることも出来ず、死を覚悟する他ないような状況になることもあります。私たち自身にとって好ましいことのみが主の祝福、恵みではなく、私たちにとって好ましく思われない出来事が、かえって主の祝福、恵みであることも、ままあります。その出来事を通して主は、どん底に救いの道を備えてくださる方です。主は大きな魚を備えられ、ヨナを飲み込ませ、祈りの時、主との交わりの時を与えられ、死から生命への架け橋を備えて下さいます。“逆転の人生へ”と一歩一歩導いて下さいます。
◆伴走される主…主は、ヨナ個人を、あわれみをもって伴走し導くお方であり、周囲の関係する他の人々をも分け隔てなく導かれるお方です。すから私たちが意識的無意識的に差別、抑圧し、レッテルを貼っている人々に対しても、あわれみをもって共に歩まれるお方です。なぜなら主にとって、すべての人は、主が創造され、息(霊)を吹き入れた神の子どもであって、高価で尊い存在だからです。そのことを創造主なる神様は、イエス様の生き様、そして死に様を通して、そして聖霊様の働きを通して私たちの日常の中に具体的に示して下さっています。
◆結び…主は、ヨナのように、ご自身に対して反抗的な振る舞いをする者をも見放さず、問いを発し続けて霊的成長を忍耐し見守り共に歩み、新しいエデン、新天新地へ向けて導いて下さるお方です。
Posted on 08/12/2024 at 07:12, by matsumoto
その日、わたしは、ダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す(アモス9章11節) /この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする (使徒15章16節)
◆はじめに…今回のオリンピックの総合馬術で、日本代表選手が銅メダルを獲得。1932年ロサンゼルスオリンピック障害馬術競技で金メダルを獲得して以来92年ぶり、団体では初めてとのこと。最終種目の前に馬の状態不良を指摘された北島選手に代わって急きょ出場した補欠の田中選手。競技開始2時間半前に繰り上がりの出場を伝えられた田中選手は「鳥肌が立って止まらなかった」と初めての補欠からの出場に動揺したが、北島選手からも「楽しんできて」と背中を押され、競技に向かった田中選手がこの大役を果たせたのは、いつ用いられても良いように事前の練習、準備を欠かさなかったことにあります。
◆ダビデの幕屋…さて今日のテキストはアモス書9章11節とその引用の使徒の働き15章16節ですが、“ダビデの幕屋”の建て直しがキーワードになっています。私たちへの適用とするなら、聖霊の宮(幕屋)なる私たちの内に主が来られ、破れ、綻びを繕い、霊的復興を為して下さるということになるでしょう。“ダビデの幕屋”は①歴代誌15章29節に記されてあるように、シオン(のダビデの町)にダビデが「契約の箱」を運び入れ、天幕で覆ったものです。そして、その前で毎日、賛美の捧げものを献げ、礼拝をしました。そこには絶えず主の臨在があり続けました。
◆アモス…アモスの名は“重荷を負う”という意味です。アモスは羊を養う牧者兼いちじく桑を栽培する農夫として、生活面での重荷を負っていました。いちじく桑の実を栽培、収穫する時期には、仮庵(幕屋)を建てて、昼夜関係なく、仕事に明け暮れていたことでしょう。そこに主ご自身から預言を語る重荷が与えられたのでした。
◆いちじく桑の実と賛美の実…いちじく桑の実の栽培は大変な労力を要し、一個一個、丹精込めて栽培する必要がありました。ダビデの幕屋における賛美も、いちじく桑の実の栽培と同様、ひと言ひと言に心を込めて主に感謝と喜びを献げることで、主との交わりの親密さが深まり、全身全霊で御国と福音の力の注ぎ、満たしを体験します。
◆結び…将来、必ずや主イエス様と相まみえる時がやって来ます。主イエス様が花婿として、そして私たちを花嫁として迎えに来て下さいます。その時がダビデの幕屋が完全に復活する時です。その日を待ち望みつつ、心から主に賛美する日々を送れるよう、祈ります。
Posted on 07/31/2024 at 13:34, by matsumoto
その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ(…)主の名を呼ぶ者はみな救われる(ヨエル2章28-32節) /神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ(…)主の名を呼ぶ者は、みな救われる/「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです(使徒2章17-21節、ローマ10章13節)
◆はじめに…最近、ひしひしと物価高を実感しています。そのため少しでも安いスーパーを選んで買い物をしたり、ガソリンスタンドを捜して給油をしています。我が家の台所は「勘弁してください」と言いたいくらい、ひっ迫しています。皆さんも同様かと思います。そんな日々ですが、曲がりなりにも生活を営んでいること自体が主の恵み以外なにものでもありません。そんな中、思いがけず先週木曜日、同じ階に住む方から釣ったばかりのイカの差し入れがあり感謝でした。
◆いなごの災害…さてヨエル書1章には、前代未聞のいなごの大群がやって来て、畑の作物をことごとく食い荒らし、さらには牧場の青草も食い尽くし、羊の群れも滅びる光景が記されています。いなごの大群による自然災害の恐ろしさが描写されています。21世紀の現代も、いなごとは違いますが、日本を含め世界のいたろところで甚大な自然災害が毎日のように頻発しています。主が最初に準備して下さった麗しい「エデンの園」は見る影もありません。
◆主の台所(祭壇)…ヨエルは、いなごの自然災害は、主の宮(神殿)へのささげ物が出来なくなることにつながっていると預言します。主の恵みに対する喜びと感謝を主にささげられなくなるのです。つまり人々の日常生活における台所の貧困が、そのまま主の台所(祭壇)が貧しくなるということです。
◆主の祝福…翻って言うなら、主は、ご自身の台所事情(祭壇)の貧しさから、私たちの台所の貧困、失望、困惑、怒り、悲しみを自らのこととして御心を砕いて下さっている、そう言うことができます。主はご自分の地をねたむほど愛され、ご自分の民をあわれまれ(ヨエル2章18節)、「わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう」(ヨエル2章25節)とあります。主は、私たちの周囲の環境すべてを回復し、主の愛といつくしみを深く知る祝福で、私たちの全身全霊を満たすことを望んでおられるお方です(ヨエル2章12-14節参照)。ヨエル書は、私たちに何か偶像礼拝とかの罪があったから、罪の結果(罰、裁き)として、いなごの災害のような自然災害が起こったとは記していません。むしろ逆に、主ご自身に災害の全責任があることとして、私たちの苦しい台所事情を“償う”という御心で私たちに愛を示して下さっています。その主の愛を、主の霊を私たち一人ひとりに注ぎ、悟らせて下さっています。
◆結び…新しい一週間、主の御名を呼び、その呼びかけに応えて下さる主の愛を体験し、感謝と喜びのささげ物をささげる一日一日となるよう、祈ります。
Posted on 07/22/2024 at 08:42, by matsumoto
わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア6章6節) /『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9章13節、12章7節)
◆はじめに…全国高校野球福岡大会で福大若葉高校がベスト4に進出。そして明日22日(月)、同系列の強豪、福大大濠高校との準決勝に。お互いリスペクトしあって、勝っても負けても選手一人ひとりの、そして私たちにとっても記憶に残るような試合になると、期待しています。
◆当事者性…その若葉高校の監督は「当事者性」「リスクを取れ」とインタビューで語っています。また「うちの野球は『ザ・筋書きのないドラマ』。シナリオはない」とも。監督と選手、そして選手間相互の信頼関係で、常識の枠を超える思いきったプレーが随所に見られました。観ていて爽快でした。
◆ホセア…ホセアの名の意味は“救い”。当時イスラエルは宗教的、道徳的、社会的腐敗がまん延していました。イスラエル王国崩壊の危機、将来の見通せない混沌とした世のただ中で、父ベエリ(ホセア1章1節)が子に名づけたのです。主は、このホセアに預言を託しました。その混沌としたイスラエルの社会の中にあって主はホセアに姦淫の女だったゴメルをめとるように言われました。ホセアは自身の結婚生活を通して、イスラエルの民を愛する主ご自身を、身をもって知っていきました。主はいけにえは好まず、誠実とあわれみに満ち満ちた方なのだと言うことを。
◆主のあわれみの実際…主は、ご自身を「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(ホセア11章8節)「わたしは命に満ちた糸杉」(同14章9節/新共同訳)とおっしゃっています。イエス様は、このホセアの口を通して語られた主のあわれみがどのようなものなのかを、取税人マタイと食事を共にすることで(マタイ9章9-13節)、そして安息日に麦の穂を摘んで食べることで(同12章1-8節)、大胆に表されました。私たちそれぞれの日々の生活の場で主のあわれみと誠実を体験し、深く知り、学び、つながらせてくださるイエス様が私たちのうちに、そして傍らにおられ、導いて下さっています。
◆結び…私たちの身の回りの状況や全世界の状況がどのような状況になったとしても、主は、私たちを決して見捨てず、誠実とあわれみをもって励まし、力づけ、救いあげて下さることを信じて、感謝します。
Posted on 07/14/2024 at 20:06, by matsumoto
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。(ダニエル7章13節) /そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです(マルコ13章26節)
◆はじめに…映画『キングダム』の最新作の劇場公開日(7月12日)に合わせ、3週連続で前3作が「金曜ロードショー」で放映されていました。舞台は春秋戦国時代の中国。「戦国の七雄」と呼ばれる七大国(斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙)が覇権を競う中、戦乱の世を終わらせるべく中華の統一を志す、嬴政(えいせい/後の秦始皇帝)と、その志に賛同する側近の活躍を描いた中華戦国大河ドラマ。いかに志や理想が高くても、いつの世も人間は争いを繰り返す他ないのでしょうか?
◆ダニエル…バビロン捕囚は中華戦国時代から遡ること約3百年。ここでも戦乱の世界が展開していました。ダニエルらは捕囚の地バビロンで、数多の苦難、迫害に遭いました。しかし「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます」(ダニエル3章17節)「私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださった」(同6章22節)と、主に信頼して屈することはありませんでした。
◆夢、幻を見る…ダニエルは、“獣”の夢と幻によって、バビロン帝国の他、様々な王国(と王たち)が次々に台頭して来ることを悟らされます。地上において力を奮う王国は、どんなに王が有能であったとしても、結局は罪人が自らの欲望を欲しいままにする“獣”の支配でしかあり得ないし、限りがあることを物語っています。その一方でその人間の王たちが支配する王国の幻の中で、まったく次元の異なる幻を見ました。「人の子のような方が天の雲に乗って来られ、その国は滅びることはない」(ダニエル7章13-14節他)と。ダニエルはこの幻があまりにも現実離れしていて、荘厳な故、その意味が分からず、悩み、脅え、顔色が変わるほどだったとあります。
◆みことばの励まし…ダニエルは血筋、知恵、知識において申し分がありませんでしたが、幻の意味が分からず、病にもなり(ダニエル8章27節)、力もうせてしまう(同10章8、9、17節他)こともありました。しかしその都度、主はダニエルを「神に愛されている者よ、恐れるな」という“みことば”によって力づけられました。苦難に耐える力は、時に適ったみことばによって与えられます。
◆結び…私たちの身の回りの状況や全世界の状況がどのような状況になったとしても、主は、その都度、みことばと天使を遣わして、私たちを励まし、力づけ、救いあげて下さることを信じて、感謝します。