Posted on 12/16/2022 at 09:37, by matsumoto
その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる(レビ記23章29節) /その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる(使徒の働き3章23節)
◆はじめに…来年4月に居を移すことをお話しました。今から移住先の住居の改修や引っ越しの際の持ち物等をはじめ、新しい生活の具体的な構想を描いています。イエス様はおっしゃいました。「心を騒がすな。わたしは場所を備えに行く。あなたがたに場所を備えたら、また来て、わたしのもとに迎える」(ヨハネ14章3節)。
◆預言者のキャンドル…先主日からアドベント(待降節)の時を過ごしていますが例年と同様、アドベント・クランツのキャンドルに火を灯していきます。本主日アドベント第二主日は「預言者のキャンドル」です。旧約聖書は39巻の書物で構成されていますが、モーセ五書(5巻)・歴史書(12巻)・詩歌(5巻)、そして預言書(17巻)に分類されますが、預言書は預言者たちに託されたメシア来臨の預言が、イエス様の誕生によって成就したことを象徴しています。アドベントは“到来”とともに“冒険”という意味ですから、大胆に危険な場所に踏み込むということです。困難な闇の世に、希望と平和と喜び、そして愛を携えてイエス様が来られる、そのメッセージを預言者は伝えると同時に、預言者は再臨のイエス様をも預言しています。
◆ラッパを吹き鳴らす…本主日のテキストはユダヤ暦による第七の月に始まる新年(ラッパの祭り)、贖罪の日、仮庵の祭りの文脈でのみことばです。これら秋の祭りはイエス様の再臨を表している型です。①テサロニケ人への手紙には、イエス様が「神のラッパの響きのうちに」再臨されることが記されてあります(①テサロニケ4章16節)。イエス様は地上生涯最後の仮庵の祭りの大いなる日、ラッパの響きに勝る大声で『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れるようになる』(ヨハネ7章37-38節)と叫ばれました。ユダヤ教のシナゴーグで贖罪の日に朗読される箇所に、イザヤ書58章があります。冒頭、主が預言者に命じたのは「大声で叫べ。角笛(ラッパ)のように声をあげよ」でした。私たちの偽善を明らかにし、その上で、主が私たちをどれほど大切に思っておられるかを告げています。
◆結び…主イエス様は間違いなく私たちのために御国の住まいを備え、ラッパの響きとともに迎えに来てくださるお方です。心騒がすことなく、主の再臨を待ち望みつつ、2022年の待降節の時を共に過ごしたいと思います。
Posted on 11/27/2022 at 17:01, by matsumoto
(…)あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない(レビ記19章2節) /それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」と書いてあるからです(①ペテロ1章16節)
◆はじめに…先主日20日から23日の三泊四日の日程で壱岐に行ってきました。そこで主は驚くべき御業を見せてくださり、主が生きておられること、主の山に備えがあることを畏れとともに確信する体験をさせて頂きました。
◆行きなさい…本主日からアドベント(待降節)です。例年と同様、アドベント・クランツのキャンドルに火を灯していきますが、アドベント第一主日は「アブラハムのキャンドル」です。「わたしが示す地へ行きなさい。あなたを大いなる国民とする。すべての民族はあなたによって祝福される」(創世記12章1-3節)「モリヤの地に行きなさい」(同22章2節)との主の約束を信じて信仰の歩みを始めた“信仰の父”アブラハム。主の約束を信じて歩んだ、その主の約束の成就としてのイエス様の誕生へと引き継がれてきたことを想起するキャンドルです。
◆アドナイ・イルエ(主は備えてくださる)…主の御声に従って七十五歳で故郷を旅立ったアブラハムは百歳で息子イサクを得ました。しかし、その最愛の息子イサクをささげよと主は語られました(創世記22章2節c)。私たちも人生で何度か重大な決断を迫られる場面に遭遇します。そのとき私たちは、主の御心に信頼して歩みを進めます。しかし先行きが見通せないため、不安や怖れを抱きます。そんな私たちに内なる聖霊様は「アドナイ・イルエ(God will provide)」(主は備えて(見つけて)くださる)との宣言を語らせてくださいます(同8節、14節)。主はプロバイダーです。事実・現実のこの世のただ中で、霊的真実の御国と私たちを結んでくださいます。そして私たちが輝いて生きられるように天の門を開いてくださいます。これは神の摂理(providence)です。
◆聖なるアブラハム…本主日のテキストの主題は「聖」です。ヘブル語で“カドーシュ”です。カフ(ק)・ダレト(ד)・シン(ש)で作られています。カフは「犠牲」ダレトは「門」シンは「口」の意味を持っています。イサクをささげ、アドナイ・イルエを宣言し、天の門が開かれたアブラハムはまさしく“聖”を生きたと言えます。アブラハムの生涯は、天の聖なる神を指し示しています。独り子イエス様を贖いの小羊として十字架に付けられ、私たちを罪から救い出し、御国に住まいを備え、迎えに来てくださいます。
◆結び…主は私たちを見つけ出し、平和と歓喜に満ちた御国の住まいを備え、迎えに来てくださるためにイエス様をこの世に誕生させてくださったのです。
Posted on 11/13/2022 at 19:06, by matsumoto
あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である(レビ記18章5節) /モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています(ローマ人への手紙10章5節)
◆はじめに…「死刑のはんこを押すときだけニュースになる地味な役職」と発言し、辞任した葉梨前法務大臣。いのちの尊厳を軽んじているとしか思えません。「あなたのいのちは紙切れ一枚、私の手のはんこにかかっているんですよ」と言われいるようで、背筋が凍り付くような感じがします。
◆風習…今日の聖書のテキストの主題は「風習・律法・信仰」です。主はモーセに語られました。「エジプトの地のならわし、カナンの地の風習に従ってはならない」(レビ記18章2節)。当時のエジプト、カナンの地しかり、そして現代の日本の地しかり。さまざま社会風紀の乱れ(パウロ風に言うならば「今の悪の世界」)があります。性的な乱れや偶像崇拝、まじない、霊媒等々…。いわゆる快楽主義的傾向です。
◆律法…それらに対峙するかのように、主はモーセに十戒を中心とした律法を授けられました。そのモーセの律法には613の規定があると言われていますが、それらを厳格に守ろうとしたものが律法主義です。それらを守ること、行うことで神の前、人の前で義しく生きようとしました。神(の律法)に対して熱心に振る舞おうと努力したのです。そのようにして神の義を求めているかに考えていながら、実は自分の義を立てようと必死になっていたのです。
◆信仰…パウロは誰よりも熱心に律法を行なっていました。“行いによる義”を立てていました。その義を他者にも求め、自らの義の理解と異なるステパノはじめ、エルサレム教会を迫害しました。その最中、復活の主と出会い、パウロの律法主義は終わりを迎えました。つまりローマ人の手紙10章4節にあるように、キリストが律法を終わらせられたのです。キリストが律法の目標であることをはっきりと認識したのです。「律法による義」から「信仰による義」に生きるように霊的に生まれ変わった、復活した“新しい人”(エペソ4章24節)となったのです。
◆結び…主イエス様は、十字架と復活によって、私たちを捕らえて離さない風習からも律法からも解放してくださり、私たちを日々造り変え、新しく創造された者として自由に生かしてくださいます。
Posted on 11/06/2022 at 18:50, by matsumoto
主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」(出エジプト33章19節) /神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました(ローマ人への手紙9章15節)
◆はじめに…ロシア「国民統合の日」の祝日だった4日、前大統領のメドベージェフ国家安全保障会議副議長が「創造主の言葉が我々に神聖な目的を与えた。地獄の支配者、サタンや大魔王の阻止だ。彼らの目的は破壊で、我々は命。だから勝利は我々のものだ」とSNSで投稿をしたと朝日新聞デジタルが報じていました。暗澹たる気持ちになります。主がロシアのウクライナ侵略を良しとすることなどあり得ようはずがありません。主のみこころは「殺してはならない」「剣を納めよ」「二度と戦いを習わない」です。
◆モーセとパウロの同胞に対する思い…今日の聖書のテキストの主題は「恵みとあわれみの主」です。「怒りをおさめ、思い直してください」(出エジプト記32章12節)と主に祈り嘆願したモーセは、さらに外交官が外交交渉するように主に和解を求めます。「この民は大きな罪を犯してしまいました(…)彼らの罪をお赦しくだされるものなら、どうかあなたの書物から、私の名を消し去ってください」(出エジプト32章32節)と。パウロもローマ書9章の冒頭、モーセと同じ思いを表白しています。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたい」(ローマ書9章3節)と。
◆イスラエル人の救い…「金メッキの子牛」事件以後、主は、宿営の外の天幕において、モーセとだけひっそり会うようにしていました。つまり救い、主との直接的霊的交流がモーセただひとりだけに限定されてしまった訳です。この状況をモーセは良しとしませんでした。モーセ個人の救いでは満足しなかった訳です。それでモーセはさらに祈りよって主と粘り強く直接交渉を続けました。「あなたのお心にかなっているのでしたら(…)私たちの咎と罪を赦し、あなたのものとしてください」と。そしてモーセは主との再契約を締結し、幕屋の完成に至りました(出エジプト記34章10節以降参照)。
◆結び…主の臨在は、幕屋から神殿、さらにイエス様ご自身となり、恵みとあわれみの主によって、今から将来にわたって、すべての人に救いが及んでいる真実があることを覚えたいと願っています(ローマ書11章25-26節)。
Posted on 10/30/2022 at 19:16, by matsumoto
民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもと集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください(…)」(出エジプト32章1節) /『私たちに、先立って行く神々を作ってください。私たちをエジプトの地から導き出したモーセは、どうなったのかわかりませんから。』とアロンに言いました(使徒の働き7章40節)
◆はじめに…私の勤めるデイサービスでは、現場スタッフ、現場リーダー、現場管理者に対する各種ミーティングを定期的に持っています。先日のリーダー会議では、度々物を盗む利用者さんの対応をどうするかがテーマになり、様々な対応策(案)を話し合うも、なかなか妙案は出ず、「所長はどう思われますか? 所長が“こうする”というならそれに従います」と結論を急ぐような話にもなりましたが、継続して検討することになり、ホッとしました。
◆金(メッキ)の子牛…今日の聖書のテキストは「待てない民の不安と不満」です。モーセがシナイ山に登ってから四十日が経過しようとしていました。ところが山に登ったまま帰って来ません。死んだ? 逃げた? 民は不安になり、混乱し、不満が募ります。それで残っているアロンに「私たちのために神を造ってほしい」と願ったのです。そうすれば安心しますと。アロンの造った神は「鋳物の子牛」(出エジプト32章4節)でした。その前に「金の耳輪を持って来なさい」(同2節)と指示をしていることから、「金メッキの子牛」だったのでしょう。そして牛そのものが神というより、牛を台座としてその上に臨在する見えないヤハウェをイメージしていたと思われます。そうだとしても偶像(物言わぬ神)です。
◆主と対話していたモーセ…山の上では、主がモーセに対して、臨在の幕屋の備品として、純金で「贖いのふた」と「燭台」を作るよう指示していたにも関わらず、山のふもとでは「金メッキの子牛」を造って、安易な安心と満足を得て喜んでいるイスラエルの民。その現実を知り、山の上でモーセは、主と対話をしていました。「怒りをおさめ、思い直してください」(出エジプト記32章12節)と。
◆主イエスと対話していたステパノ…この出エジプトの一連の出来事を、ステパノは議会での弁明(証し)で引き合いに出しています。しかし議会の人々はますます憤り、ステパノを町の外に引きずり出し、石を投げつけリンチにしました。その最中にステパノは天を見上げ、主イエス様を見、そして語りかけました。「この罪を彼らに負わせないでください」(使徒の働き7章60節)と。
◆結び…私たちは自らの安心・満足を求めて、偶像を礼拝する誘惑があります。しかし主イエス様は、私たちの祈りを聞いてくださり、対話されるお方です。