Posted on 03/19/2017 at 21:27, by matsumoto

集会と活動のご案内

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイによる福音書11章28節)

どうぞ、お気軽に日曜日の礼拝にいらして下さい。お待ちしています。

《集会のご案内》

◇主日礼拝/日曜日 午後6時~7時半(現在スカイプ/nobuyuki matsumoto でリモート礼拝を行っています)

◇早天祈祷会/毎日 午前5時半~6時半

《教会活動のご案内》

◇キリスト教式結婚式・葬儀・記念会(自由献金)

◇訪問聖餐式・訪問礼拝(無料)

◇人生(霊性)相談/随時(電話および面談)(無料)

◇NPOアジアン・ブリッジ(アジアの子ども達への支援)

◇マザーテレサ写真展企画

お問い合わせは、

au 090-9935-7053

まで。

上記活動はすべて皆様の尊い献金によってなされています。感謝します。

なお、献金の送付先は以下の通りですので、よろしくお願いします。

ゆうちょ銀行
 
記号12110 番号346951
 
なまえ マツモト マツヨ
 
(他銀行からの振込みの場合
【店名】二一八【店番】218【預金種目】普通預金【口座番号】0034695)
Posted on 10/20/2024 at 17:43, by matsumoto

『創造主のみこころ』(ユダヤ人キリスト者と共に その4)(2024.10.20)

神である主は、アダムとその妻のために皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創世記3章21節) /義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする(イザヤ42章6節)

◆はじめに…今日は、『創造主のみこころ』と題して、①神様の創造と愛、②皮衣と光り衣、③キリストを着る、ということで、神様が私たち人間を深く愛し、救いの道を示して下さっているということでメッセージを聴きたいと願っています。さて昨日、私の勤めている社会福祉法人の障害者施設で“恵愛まつり”というイベントがありました。ちょうどユダヤ教の三大祭りのひとつ“仮庵の祭り”の時期になります。その仮庵の祭りの最終日が“シムハット・トーラーで、シナゴーグでは年間トーラー朗読の最初箇所、創世記1章からの天地創造の箇所が読まれ、トーラーの巻物を抱えて、会堂の周りを踊りながら進みます。

◆神・神である主・主…(エロヒーム)は、六日で天地万物(自然環境)をお造りになられたお方です(創世記1章)。神である主(ヤハウェ・エロヒーム)は「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2章7節)と粘土で像を形作る彫刻家のように創造され、『人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、ふさわしい助け手を造ろう』(創世記2章18節)と、最初の人間が自分自身で孤独に気づく前に、最初の人間の孤独を知っておられるお方です。

◆皮衣=光の衣…主なる神は、最初の人間、アダムとエバを、その罪ゆえにエデンの園から追放した厳しい神のイメージが強いと思います。しかし、私たちが罪を犯す弱い存在だからこそ、「皮衣」を着せて下さり、自らの弱さ、限界を認め、主に依り頼んで歩む霊的成長の過程を傍らにいて伴走して下さる親愛の情に溢れるお方です。そのお方を私たちは“主”と呼びます。この主が、アダムとエバに与えて下さった「皮衣」を“光の衣”と1世紀の賢者ラビ・メイアは解釈しています(「皮」と「光」はどちらも“オール”と発音する)。主がイエス様だと信じる私たちは、「皮衣」からは“贖い主なるイエス様”を想い起こしますし、「光の衣」からは“世の光なるイエス様”(ヨハネ8章12節)を想い起こします

◆キリストを着る…私たちに主が与えて下さったのは私たちの罪の贖いのために十字架に掛かられたイエス様ご自身です。そのことをパウロはローマ書で「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ書13章14節)と言っています。また12節では「光の武具」と言っています。私たちに与えられた“皮衣”“光の衣”は主イエス・キリストです。新しい服を着ると私たちは、心躍り、内側から輝きます。

◆結び…私たちに新しい服、皮衣、光の衣を与えて下さった主に感謝します。主イエス様が語られた「罪に定めない」「裁かない」「すべての者を救うために来た」と言う福音を、身をもって世に顕す日々となるよう祈ります。

Posted on 10/16/2024 at 06:03, by matsumoto

『霊的遺産相続』(ユダヤ人キリスト者と共に その3)(2024.10.13)

モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。(申命記33章4節) /この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。(ヨシュア記1章8節)

◆はじめに…先週10月11日、ノーベル平和賞の発表があり、核廃絶を訴え続けて来た「日本被団協」が受賞しました。日本被団協の代表委員・箕牧智之(みまきとしゆき)さん(82)は記者会見で「『核兵器があるから世界は安全なんだ』 という言い方をされる。それでも核兵器があれば、テロが狙うかもわからない。周り全部、大きな核被害を受けることになる。そのことを政治家は知るべき」「世界の皆様へ。私たちが生きている間に核兵器をなくしてください。被爆者11万4000人の願いです」イエス様はおっしゃいました。「平和を作り出す者は幸い」

◆霊的遺産相続…本主日は、シナゴーグでの年間トーラー朗読の最終週で申命記33章から34章が読まれます。そこから『霊的遺産相続』というテーマで、みことばに聞いていきます。モーセは自らの死を前にして、「みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした」(申命記33章4節)とあります。つまりモーセは、主から受け継いだ律法(みおしえ)を、次の代のイスラエルの民に霊的遺産相続したということです。先日、知人から車を譲って頂いたとお話しました。その譲って頂いた車のダッシュボードの隅に「運転者が唱える祈り」というメモがありました。車とともに祈りをも譲り受けたのでした。

◆律法の本質…律法は613の戒律からなっています。このすべてを行なえる人はいないでしょう。大切なことは、律法の言わんとしている心、本質です。ダビデは律法の本質を十一にまとめ(詩篇15篇)、イザヤは六つに(イザヤ33章15節)、それをミカは三つに(ミカ6章8節)、さらにハバククは全部ひっくるめて一つにしまた(ハバクク2章4節)。そのハバククをパウロはローマ書で引用し、ローマ書全体の要約としています。

◆律法の完成者…信仰の内容はイエス様です。イエス様のみことばです。イエス様は律法の本質を二つにまとめました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次はこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません」(マルコ12章29節-31節)。イエス様は、いのちに至る道であり、愛と平和の源です。主に愛されてモーセは死にました。イエス様は復活し、今も私たちとともに働いておられ、みことばを確かなものとして下さっています。

◆結び…私たちに信仰を与えて下さり、親密な関係を築いて下さる主に感謝します。主のみことばを日々、生きる者として下さい。

Posted on 10/06/2024 at 19:51, by matsumoto

『モーセの歌(耳を傾けよ)』(ユダヤ人キリスト者と共に その2)(2024.10.6)

私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。(申命記32章2節) /あなたがたは迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであってのろってはいけません。(ローマ12章14節)

◆はじめに…先週、アメリカに住んでいる、主にある姉妹から祈りのリクエストが届きました。娘夫婦が暮らしているノースカロライナ州西部に、ハリケーン「へリーン」が襲って、洪水によって甚大な被害に見舞われ、娘さんが経営するマッサージ師養成スクールも、被害地域の中心地的な、アッシュヴィルという街にあって、壊滅的なダメージを受けているとのことでした。どうぞお祈りに覚えてください。

◆ハアズィヌ(耳を傾けよ)…本主日は申命記32章で、モーセが生涯を閉じる前にイスラエルの民を前にして主の御業を詠唱(えいしょう)したところです。“モーセの歌”と言われています。人生の終わりがけに私たち自身が人生の歩みの中で最も愛し、大切にして来た愛唱讃美歌、愛唱聖歌を、兄弟姉妹を前にして歌うといったところでしょうか。みことばをメロディー(節)に載せることで、頭でみことばを理解するのではなく、こころ(感情)をみことばが揺さぶり、新しい力が与えられる契機になります。みことばが雨、露、小雨、夕立のように青草の上に降り、地に染みこんで、成長するようです。私たちも礼拝で、そして日々の生活で、みことばを歌い、聞き、思い起こして力を得ます。今日、私たちがモーセの歌から聞くメッセージは何でしょうか?

◆復讐しないこと…一つは、「復讐と報いはわたしのもの」(申命記32章35節)、「自分で復讐してはいけません」(ローマ12章19節)とあるように、“復讐しない”ということです。憎しみは復讐にも復讐は暴力に、暴力は更なる暴力の連鎖になります。イエス様も『目には目で、歯には歯で。』ではなく、別の道を示されたことを私たちは知っています(マタイ5章38-48節)。

◆与えること…もう一つは、“与える”ことです。創造の主は、雨を降らせ、世話をし、羽に載せ、岩からの蜜と油で養われたとモーセは歌っています。主はその本質として与える方です。なぜなら主は満ち満ちておられ、不足はない方だからです。イエス様も「求める者には与えなさい」「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」(ルカ6章30、38節)とおっしゃいました。「ギブアンドテイク」ではなく、「ギブアンドギブ」です。神の似姿です。

◆結び…主は、みことばによって私たちの背中を押し、手を引き、生きる力を与えてくださいます。主に賛美と祈りをもって感謝をささげます。

 

Posted on 09/30/2024 at 20:59, by matsumoto

『心を包む皮を切り捨てて』(ユダヤ人キリスト者と共に その1)(2024.9.29)

あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。(申命記30章6節) /すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。(ルカ4章17節)

◆はじめに…先週、立憲民主党、自民党の新しいリーダーが決まったことが報道されていました。どちらのリーダーにも混じり気の無い志と曇りのない目で、国民に寄り添った政策を実行してくれるよう願います。

◆ユダヤ人キリスト者と共に…先週で「新約に引用されている旧約」シリーズを終え、今回から、祈りの中で導かれた新しいシリーズ「ユダヤ人キリスト者と共に」をテーマに、みことばを聞いていきたいと思います。ユダヤ教のシナゴーグではモーセ五書を1年周期で毎週読み続け、その各週の朗読箇所のことを「パラシャ」と言います。イエス様の時代も同様でした(ルカ4章17節参照)。ちなみにイエス様はこの時、イザヤ書が手渡されてイザヤ書61章のくだりを朗読しています。これは期せずして今日の礼拝でのモーセ五書の申命記30章の箇所と合わせて読まれる預言書(=ハフタラ)の箇所です。今週10月3日の日没からユダヤの新年(ローシュハシャナー)で、この日には角笛を吹き鳴らして主の新しい年を告げ知らせます。そのようにイエス様はイザヤ書と、ご自身の御声をもって、「主の恵みの年」の到来を高らかに宣言されたのでしょう。

◆ニツァビーム(立って)…各週のパラシャには呼び名がつけられていて、今日のパラシャは“ニツァビーム(立って)”です。おおむね該当聖書箇所の冒頭の単語から採られ、記憶しやすいようになっています。「きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている」(申命記29章10節)。パラシャは申命記29章10から30章20節、31章10節から30節、ハフタラはイザヤ書61章10節から63章9節、加えてメシアニックジューは関連する新約のルカ4章16節から30節です。この“立っている”というのはただ物理的に立っていることではなく、“地位につく”“任命される”という意味がある語です。何かしらのミッション(使命)があるということです。

◆心を包む皮を切り捨てる…ユダヤ人は生後8日目にラビが割礼を施します。一人のラビが皮を切除し、もう一人のラビが幼子を膝の上に抱えます。心の割礼は主がなさいます。人間の力では心を覆う厚い皮(世の煩い、誘惑、偶像)を取り除くことは不可能なのです。主が心の包皮を切り捨てて下さることで、主を愛し、いのちと祝福を選択して生きる者と変えられるのです。

◆結び…イエス様が新しい年、恵みに溢れる年を約束してくださっています。

 

Posted on 09/23/2024 at 10:23, by matsumoto

『イエス様に近づく道』(新約に引用されている旧約 その104)(2024.9.22)

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。(マラキ3章1節) /この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。(マタイ11章10節)

◆はじめに…昨日、『終わりに見た街』というテレビドラマを観ました。現代から第二次世界大戦の戦時下に大泉洋さんが父親を演じる家族がタイムスリップするという設定。大泉さんは「戦争を経験していない世代の人たちが戦時下に行ってしまった時、若い子たちは周りに流されていき、自分も国のために戦いたいという気持ちに変わっていくところ」に怖さを感じたと語っていました。

◆主に近づく…2022年5月からシリーズで「新約に引用されている旧約」を共にみことばに聞いてきましたが、いよいよ本日で最後になりました。毎主日礼拝で、旧約の主の愛と約束のバックボーンがあって、それに新約のイエス様のいつくしみと恵みが包み込んで下さることを実体験させて頂いたように思います。本日は、しばしば什一献金の奨励で取り上げられるマラキ書です。だからと言って、今回、献金のお奨めをする訳ではありません。主に向かう姿勢、あるいは心持ち、主に近づく道筋を共に確認する機会になるのではと願っています。

◆旧約最後の預言者…マラキは旧約最後の預言者です。活動した時期はバビロン捕囚解放後、約百年後になります。ユダヤの民の主に向かう姿勢はどのようなものであったというと、霊的に鈍感になっていました。主に対して「どんなふうにあなたが私たちを愛されたのですか?」(マラキ1章2節)「どんなふうに私たちがあなたの名をさげすみましたか?」(同6節)「どんなふうに私たちはわずらわしましたか?」(同2章17節)と、自分たちの正当化を繰り返しました。そんな中にあっても主は希望で預言を締めくくっています。「預言者エリヤを遣わす」「のろいでこの地を打ち滅ぼさないために」(マラキ3章5-6節)。その後4百年の間、預言は止みました。

◆ゼカリヤとザカリヤ…ゼカリヤの名の意味は「主は覚えておられる」と先週、学びました。また、バプテスマのヨハネの父は祭司ザカリヤですが、ザカリヤの名もまた「主は覚えておられる」です。そしてマラキは「わたしの使者」です。つまり主は祝福の約束を覚えておられ、4百年の時の橋を渡り、祝福のメッセージを持ち運ぶということです。祝福のメッセージはマラキからバプテスマのヨハネへと渡されました。そのメッセージの内容は、イエス・キリストです。

◆結び…祝福のメッセージが旧約時代から新約時代へ、そして私たちのところまで届けられ、イエス様に近づく道が日々備えられていることを感謝します。

 

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