Posted on 10/18/2026 at 11:54, by matsumoto

ユダヤ人キリスト者と共に ノア(2026.10.18)

《聖書箇所》創世記6:9-11:32/イザヤ54:1-55:5/マタイ24:36-44/ルカ17:26-37/使徒2:1-16/①ペテロ3:18-22/②ペテロ2:5

《ギホンの泉》~分かち合いの呼び水~

 

『イエス様の救いはすべての者に及ぶ』

教会の名「いとすぎ」とゴフェル

ノアの箱舟は“ゴフェル”の木で造られました。ゴフェルは、私たちの教会の名として与えられた“いとすぎ”です。本主日は、この箱舟の物語から「キリストの救いはすべての者に及ぶ」という福音の頂へと向かいます。

 

箱舟はイエス様の“型”

箱舟には扉(門)が一つだけありました。イエス様は言われます。「わたしは門である」(ヨハネ10:9)。「わたしを通らなければ、父のもとに行くことはできない」(同14:6)。

洪水の裁きの中で守られたのは、唯一の扉を通って箱舟の中にいた者だけでした。これは、私たちが「キリストにあって(エン・クリストゥー)」(エペソ1:3)生きるという霊的現実の予表です。

 

贖いに覆われた箱舟と輝く天窓

その箱舟を覆っていたのは樹脂の“コフェル”。その語根は「贖い(カファル)」です。いとすぎの木で造られた箱舟がコフェルで覆われたように、木の十字架で流された血によって、イエス様は今日も私たちを覆い守ってくださっています。

さらに、ラビ文献では天窓は「自ら輝く宝石」と解釈されます。暗い箱舟の中に差し込む唯一の光、それは「神の栄光の輝き」(ヘブル1:3)であるイエス様のご姿そのものです。どのような暗闇の中でも、御言葉であり輝きであるイエス様が私たちを照らし、導かれます。

 

裁きの水から、再生のバプテスマへ

使徒ペテロは「洪水の水は、バプテスマの型である」(Ⅰペテロ3:21)と語ります。水は古い世界を沈め、箱舟の中の者を新しい世界へ導きました。バプテスマも同じです。古い自分が死に、イエス様の復活とともに新しい創造の世界へと歩み出します。

旧約のノア(水による刷新)と虹の約束(アブラハムへの祝福)は、新約のヨハネ(悔い改め)を経て、イエス様の十字架と復活による救いの完成へと結実したのです。

 

届かないと思われた深みにまで至る救い

そして、福音は最も深い闇へと届きます。ペテロは語ります。「キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られた」(Ⅰペテロ3:19-20)。

ノアの時代、神の忍耐を拒んで歴史の闇に沈んだ者たちのもとへ――イエス様は真の箱舟、唯一の門、輝く天窓として、死と捕らわれの領域へまで降りて行かれました。

イエス様の救いは、今生きている私たちだけのものではありません。人間の限界や過去の過ち、歴史の暗闇をも超えて、すべての者に及ぶコフェル(贖い)なのです。

 

結び

だからこそ、私たちは今日告白します。

どんな深みにいても、主の愛の手は届きます。

主こそ神。主こそ救い。主こそ、すべての者を包み込み、愛される方です。

 

 

 

 

 

次回の聖書箇所は

レフ・レハ(行け):創世記12:1-17:27/イザヤ40:27-41:16/使徒7:1-8,ローマ3:19-5:6,ガラテヤ3:15-18,5:1-6,コロサイ2:11-15,ヘブル7:1-19,11:8-12です。

 

〔日曜日の午後6時から約1時間、主日礼拝を行っています。お気軽にお越しください。問い合わせ/電話090-9935-7053(松元)まで〕

Posted on 10/11/2026 at 17:36, by matsumoto

ユダヤ人キリスト者と共に ベレシート(はじめに)(2026.10.11)

《聖書箇所》創世記1:1-6:8/イザヤ42:5-43:10/ヨハネ1:1-18,コロサイ1:15-17,ヘブル11:1-3,②コリント4:6

《ギホンの泉》~分かち合いの呼び水~

 

『光の衣 — 創造の初めからキリストの栄光へ』

ラビ・ジョナサン・サックス師は、創世記のベレシートの記述は、「世界がどのように作られたか(科学的・物理的な問い)」に答えるものではなく、「私たちはどのように生きるべきか」「私たちは他者や社会に対してどのような責任を負っているか」という問いに答える、「正義・自由・倫理の誕生論」として読み解きました。その意味でベレシートは「生の羅針盤」なのだと語ります。

今、その「生の羅針盤」の最初の言葉「ベレシート(初めに)」から始まる壮大な物語を前にしています。世界がまだ形を持たず、深淵の上に暗闇が覆っていた時、創造主は、その闇に向かって語られました。「光あれ」。この一言から、すべてが始まりました。

創造の光 — “光の衣”としての神の臨在

創世記3章21節で、創造主は、罪を犯したアダムとエバに「皮の衣」を着せられました。ここで注目すべきは“皮(עור)”と“光(אור)”はヘブライ語で発音が同じことです。それゆえ、ユダヤの伝統(ベレシート・ラッバー)には、ラビ・メイアの写本にこう記されていたと伝えられています。「神は彼らに“光の衣(כתנות אור)”を着せられた」。つまり、人間は本来、神の光をまとっていた存在だった、と言う訳です。しかし、罪によって神の栄光の衣が失われたことを象徴的に「皮の衣」として記したと解釈されます。

堕落と闇 — 光を失った人間の物語

創造主は、人間を「神の似姿(ツェレム・エロヒーム)」として造り、自由と責任を与えられました。

しかしアダムは責任を回避し、カインは「私は弟の番人でしょうか」と言い放ちました。自由は与えられましたが、責任を果たさない時、世界は闇へと傾いていく。創世記の物語は、光を失った人間が、闇の中で迷い始める物語でもあります。

しかし、その闇のただ中で主は、救いの計画を語られました。

原始福音 — “光の衣”を取り戻す約束

人間が罪に落ちた直後、創造主は蛇に宣告されます。「彼はおまえの頭を砕く」(創世記3章15節)。これは聖書全体で最初のメシア預言(原始福音)だと、メシアニックジューは理解しました。メシアが苦しみ(かかとを砕かれ=十字架と死)、しかし最終的に勝利し(頭を砕く=十字架と復活)、人間が失った光を回復するという約束です。

つまりアダムとエバに与えられた“皮の衣”は、神の栄光の衣が罪によって失われた象徴ではなく、イエス様による贖いの先取りです。

創造のロゴス — 初めからそこにおられた光

使徒ヨハネは、創世記の「初めに」をこう読み替えます。「初めに言(ロゴス)があった」(ヨハネ1章1節)。このロゴスこそ、イエス・キリストだと。創造の光は、イエス様の光。創造の言葉は、イエス様の言葉。創造の霊は、イエス様の霊。創造のはじめからイエス様は、すでにそこにおられ、私たちの活ける「生の羅針盤」だったのです。

「ベレシート(初めに)」と創造のロゴス

ユダヤ教の伝統的解釈において、「ベレシート(בְּרֵאשִׁית)」の先頭の文字「ベート(ב)」は「家」を意味し、神が世界を住まいとして創られたことを示します。

その解釈を踏まえつつ、メシアニック・ジューは、ヨハネによる福音書1章1-3節(「初めに言(ことば)があった…」)と結びつけて解釈します。神が「光あれ」と発した「言葉(ダーバール/ロゴス)」そのものがメシア(イエス様)であり、イエス様を通じてすべてが創造されたと捉えます。そしてヘブライ語の「レシート(Reishit)」は「初物」「長子」「頭」を意味するため、コロサイ書1章15–18節「御子は、(…)造られたすべてのものより先に生まれた方」を引用して、「万物は、御子(レシート)によって造られ、御子のために造られた」と理解しまた。

新しい創造 — 私たちの心に輝く光の衣

パウロはこう語ります。「『光が、やみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(②コリント4章6節)。創世記の「光あれ」は、今、私たちの心の中で再び語られています。私たちは、罪によって光を失ったアダムの子ですが、イエス様によって光を取り戻した新しい人間です。イエス様の光は、私たちの内側に着せられた“光の衣”です。

光の衣をまとって生きる者として

イザヤ書43章で主は言われます。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」。創造の初めから、堕落の瞬間にも、ノアの時代の闇の中でも、そして主の十字架と復活においても、主は一貫して“光の衣”を人間に着せるために働いてこられました。

私たちはこの世の闇を自力で追い払うことはできません。しかし、無から光を創造された主は、今も私たちの人生に語りかけておられます。「光あれ」と。

私たちは、この“光の衣”をまとって、イザヤ43章10節のように「光の証人」としてこの世界に遣わされています。

 

 

《シロアムの池》~分かち合いの恵み~

次回の聖書箇所は

ノア 創世記6:9-11:32/イザヤ54:1-55:5/マタイ24:36-44/ルカ17:26-37/使徒2:1-16/①ペテロ3:18-22/②ペテロ2:5です。

〔日曜日の午後6時から約1時間、主日礼拝を行っています。お気軽にお越しください〕

Posted on 10/04/2026 at 08:30, by matsumoto

ユダヤ人キリスト者と共に シムハット・トーラー(律法の喜び)(2026.10.4)

《聖書箇所》申命記33:1-34:12,創世記1:1-2:3/ヨシュア記1:1-18/ヨハネ1:1-18,マタイ5:17-19,ヘブル8:1-13

《ギホンの泉》~分かち合いの呼び水~

 

『生ける愛のトーラーなるイエス様』

今日、私たちは「シムハット・トーラー」、すなわち 律法の喜び を覚えます。ユダヤの民はこの日に、トーラーの巻物を抱き、踊り、歌い、御言葉への喜びを身体いっぱいに表現します。

元英国総ラビ、ジョナサン・サックス師はこう語りました。「シムハット・トーラーは、ユダヤ人がすべてを失ったときに生まれた。しかし、彼らは決して喜ぶ能力を失わなかった。喜びの能力を破壊されない民は、それ自体が不滅である。」

トーラー朗読の最終巻・申命記を読み終えると、間を置かずに創世記へと戻り、再び一年の物語が始まります。

サックス師はこの循環についてこう言いました。「愛するものとの関係に終わりはない。終わりの瞬間こそが、新しい始まりである。」

 

創造の始まり ― 御言葉が世界を開いた

創世記の冒頭、主は 「光あれ」と語られました。世界は、御言葉によって始まりました。そしてその御言葉(ロゴス)は、キリストなるイエス様として私たちの間に住まわれました。ヨハネはこう記します。

「御言葉は人となり、私たちの間に住まわれた(=幕屋を張られた)」(ヨハネ1:14)

創造の言葉が、今や人となって私たちのただ中に来られたのです。

 

トーラーの成就 ― 石から心へ

イエス様は言われました。

「わたしは律法を廃するためではなく、成就するために来た。」(マタイ5:17)

かつて石の板に刻まれたトーラーは、大祭司イエス様の犠牲と聖霊の働きによって、今や 私たちの心と思いに刻まれるものとなりました。ヘブル書はこう語ります。

「わたしは彼らの心にわたしの律法を置き、彼らの思いにそれを書き記す。」(ヘブル8:10)

外側からの義務だった律法は、内側から湧き上がる 愛と喜びの応答へと変えられました。

 

8日目の約束 ― 生ける水の川が流れ出る

仮庵の祭りの終わり、すなわち 8日目(シェミニ・アツェレット) に、イエス様は大声で宣言されました。

「渇いている者は、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る。」(ヨハネ7:37–38)

トーラーの喜びの日に、イエス様は「生けるトーラー」として立ち、私たちの内側に泉を開かれました。

 

終わりが始まりとなる ― 新しい物語へ

トーラー朗読が終わる瞬間、創世記へと戻るように、父なる神、イエス様、そして聖霊様との物語には終わりがありません。イエス様という「生ける愛のトーラー」は、私たちの歩みの中で、今日も新しい章を開いてくださいます。終わりは、始まりです。閉じられるページは、次のページを開くためにあります。主の御言葉は、私たちのうちで生き続けます。

 

結び ― 生けるトーラーを喜ぶ神の子として

今日、私たちは喜びます。創造主の愛の御言葉そのものが人となって現れたイエス様を喜び、感謝します。

そして願います。今日から始まる新しい物語の第一歩を、イエス様と共に、そしてキリストにある兄弟姉妹と共に、勇気と希望のうちに踏み出すことができますように。(アーメン)

 

 

 

次回の聖書箇所は

ベレシート(はじめに) 創世記1:1-6:8/イザヤ42:5-43:10/ヨハネ1:1-18,コロサイ1:15-17,ヘブル11:1-3,②コリント4:6です。

 

〔日曜日の午後6時から約1時間、主日礼拝を行っています。お気軽にお越しください〕

Posted on 09/27/2026 at 21:41, by matsumoto

ユダヤ人キリスト者と共に スコット(仮庵の祭り)(2026.9.27)

《聖書箇所》レビ記22:26-23:44,民数記29:12-16/①列王記8:2-21/ヨハネ7:37-38,1:14,黙示録7:9-17,21:1-4

《ギホンの泉》~分かち合いの呼び水~

 

『脆(もろ)さの中に住まわれる主 — 仮庵から永遠の都へ』

先週の25日(金)は『中秋の名月』でした。時同じく、日没から『仮庵の祭り』が始まっています。

『仮庵の祭り』(スコット)で主は、風に揺れる一時的な小屋(スッカー)で過ごすよう命じられました。元英国首席ラビのジョナサン・サックス師は「真の安心安全は堅固な城塞ではなく、私たちを包む主の臨在の内に存在する」と指摘します。信仰とは確実性を追うことではなく、不確実さの中で生きる勇気です。

かつて仮庵の祭りでは70頭の雄牛が捧げられましたが、これは主の恵みが全人類に向けられていることを象徴しています(レビ記23章、民数記29章)。

主の望みは、かつてソロモン神殿に主の栄光が満ちたように(①列王記8章)、今も、そして将来も「民の真ん中に住まう」ことです。

この約束はイエス様において最高潮を迎えます。ヨハネは「言葉は肉体となり、私たちの間に住まわれた(幕屋を張られた)」(ヨハネ1章14節)と語っています。イエス様は、受肉し、生身の身体という脆い「仮庵」を身にまとい、私たちの弱さに入り込んでくださいました。

そして祭りのクライマックス(8日目)で、イエス様は、ご自身こそが魂の渇きを癒やす「生ける水」の源であると宣言されます(ヨハネ7章37–38節)。

私たちの地上の歩みは、脆弱さや不安を伴う一時的な旅路です。しかし黙示録が示すように、やがてあらゆる民族が集い、主が永遠の幕屋を張ってすべての涙を拭い去る日が訪れます(黙示録7章、21章)。

脆(もろ)さや不確実な現状を過度に恐れず、イエス様の遣わされる生ける水(聖霊)を受けて、私たち一人ひとりに備えられている永遠の住まいの希望を抱いて一歩一歩、共に歩んで行きたいと願います。

次回の聖書箇所は

シムハットトーラー(律法の喜び) 申命記33:1-34:12,創世記1:1-2:3/ヨシュア記1:1-18/ヨハネ1:1-18,マタイ5:17-19,ヘブル8:1-13です。

 

〔日曜日の午後6時から約1時間、主日礼拝を行っています。お気軽にお越しください〕

Posted on 09/20/2026 at 21:09, by matsumoto

ユダヤ人キリスト者と共に ヨムキプール(贖罪の日)(2026.9.20)

《聖書箇所》レビ16:1-34,民数記29:7-11/イザヤ52:13-53:12,57:14-58:14/

マタイ27:1-56,ヘブル9:11-28,10:1-18,ローマ3:21-26

《ギホンの泉》~分かち合いの呼び水~

『悔い改め=あなたはいつでもやり直せる』

ヨム・キプールとは?…ヨム・キプール(贖罪の日)はユダヤ教において一年で最も神聖な日であり、神と魂の本質に最も近づく日とされています。ユダヤ暦のティシュレイ月10日、今年2026年は、本日9月20日の日没から、21日の日没1時間後までの約25時間にあたり、その間は飲食を控え、体を洗ったりローションやクリームを使わず、革製の靴を履かず、車の運転を含む労働をせず、夫婦の営みを慎むべきとされます。ラビたちは、一日中シナゴーグで許しの祈りを捧げながら過ごします。

ヨム・キプールの起源…ヨム・キプールの起源は、旧約聖書の出エジプト記34章に基づいています。天地創造から2448年(紀元前1313年)、それまで430百年に渡ってエジプトで奴隷として使役していたユダヤの人々が出エジプトを果たしました(出エジプト記12章40節)。しかしそのわずか数カ月後、彼らは金の子牛像を崇拝するという罪を犯しました。モーセがシナイ山で神から十戒を受け取るのに40日。しかしその間、麓で待っていたユダヤの民はしびれを切らし金の子牛像を作ったのです。下山したモーセは、民が宴に興じ、金の子牛を拝んでいたのを目の当たりにし、十戒の石版を破壊してしまいました。そして再び主に会うために山に上ったモーセに主は、自身を「罪を赦す者」と宣言します。その後モーセが十戒の石板を携えてシナイ山を下りた日がティシュレイ月の10日で、ヨム・キプール(贖罪の日)として知られることになりました。(タルムード『ババ・バトラ(Bava Batra)』121a および 『タアニット(Taanit)』30b)

解放と再出発の日…元英国全体ユダヤ教首席ラビであるジョナサン・サックス師(1948–2020)は、「ヨム・キプールは単なる告白や許しの日ではなく、深い解放の日です。贖罪とは、私たちが再びやり直せることを意味します。私たちは過去や失敗の囚人ではありません。白紙の本が開かれ、神は私たちに新しい章を書くよう招いているのです」と語っています。

贖い主イエス様…私たちを罪から解放するために自らを贖いの代価として天の父なる神に差し出されたイエス様は、主と私たちの間を隔てる垂れ幕を引き裂いて、天の至聖所を開き、御手で包み込んで下さっておられます。

 

次回の聖書箇所は

スコット(仮庵の祭り) レビ16:1-34,民数記29:7-11/イザヤ52:13-53:12,57:14-58:14/マタイ27:1-56,ヘブル9:11-28,10:1-18,ローマ3:21-26です。

 

〔日曜日の午後6時から約1時間、主日礼拝を行っています。お気軽にお越しください〕

 

 

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