Posted on 03/19/2017 at 21:27, by matsumoto
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイによる福音書11章28節)
どうぞ、お気軽に日曜日の礼拝にいらして下さい。お待ちしています。
《集会のご案内》
◇主日礼拝/日曜日 午後6時~7時半(現在スカイプ/nobuyuki matsumoto でリモート礼拝を行っています)
◇早天祈祷会/毎日 午前5時半~6時半
《教会活動のご案内》
◇キリスト教式結婚式・葬儀・記念会(自由献金)
◇訪問聖餐式・訪問礼拝(無料)
◇人生(霊性)相談/随時(電話および面談)(無料)
◇NPOアジアン・ブリッジ(アジアの子ども達への支援)
◇マザーテレサ写真展企画
お問い合わせは、
au 090-9935-7053
まで。
上記活動はすべて皆様の尊い献金によってなされています。感謝します。
なお、献金の送付先は以下の通りですので、よろしくお願いします。
ゆうちょ銀行
記号12110 番号346951
なまえ マツモト マツヨ
(他銀行からの振込みの場合
【店名】二一八【店番】218【預金種目】普通預金【口座番号】0034695)
Posted on 10/06/2024 at 19:51, by matsumoto
私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。(申命記32章2節) /あなたがたは迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであってのろってはいけません。(ローマ12章14節)
◆はじめに…先週、アメリカに住んでいる、主にある姉妹から祈りのリクエストが届きました。娘夫婦が暮らしているノースカロライナ州西部に、ハリケーン「へリーン」が襲って、洪水によって甚大な被害に見舞われ、娘さんが経営するマッサージ師養成スクールも、被害地域の中心地的な、アッシュヴィルという街にあって、壊滅的なダメージを受けているとのことでした。どうぞお祈りに覚えてください。
◆ハアズィヌ(耳を傾けよ)…本主日は申命記32章で、モーセが生涯を閉じる前にイスラエルの民を前にして主の御業を詠唱(えいしょう)したところです。“モーセの歌”と言われています。人生の終わりがけに私たち自身が人生の歩みの中で最も愛し、大切にして来た愛唱讃美歌、愛唱聖歌を、兄弟姉妹を前にして歌うといったところでしょうか。みことばをメロディー(節)に載せることで、頭でみことばを理解するのではなく、こころ(感情)をみことばが揺さぶり、新しい力が与えられる契機になります。みことばが雨、露、小雨、夕立のように青草の上に降り、地に染みこんで、成長するようです。私たちも礼拝で、そして日々の生活で、みことばを歌い、聞き、思い起こして力を得ます。今日、私たちがモーセの歌から聞くメッセージは何でしょうか?
◆復讐しないこと…一つは、「復讐と報いはわたしのもの」(申命記32章35節)、「自分で復讐してはいけません」(ローマ12章19節)とあるように、“復讐しない”ということです。憎しみは復讐にも復讐は暴力に、暴力は更なる暴力の連鎖になります。イエス様も『目には目で、歯には歯で。』ではなく、別の道を示されたことを私たちは知っています(マタイ5章38-48節)。
◆与えること…もう一つは、“与える”ことです。創造の主は、雨を降らせ、世話をし、羽に載せ、岩からの蜜と油で養われたとモーセは歌っています。主はその本質として与える方です。なぜなら主は満ち満ちておられ、不足はない方だからです。イエス様も「求める者には与えなさい」「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」(ルカ6章30、38節)とおっしゃいました。「ギブアンドテイク」ではなく、「ギブアンドギブ」です。神の似姿です。
◆結び…主は、みことばによって私たちの背中を押し、手を引き、生きる力を与えてくださいます。主に賛美と祈りをもって感謝をささげます。
Posted on 09/30/2024 at 20:59, by matsumoto
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。(申命記30章6節) /すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。(ルカ4章17節)
◆はじめに…先週、立憲民主党、自民党の新しいリーダーが決まったことが報道されていました。どちらのリーダーにも混じり気の無い志と曇りのない目で、国民に寄り添った政策を実行してくれるよう願います。
◆ユダヤ人キリスト者と共に…先週で「新約に引用されている旧約」シリーズを終え、今回から、祈りの中で導かれた新しいシリーズ「ユダヤ人キリスト者と共に」をテーマに、みことばを聞いていきたいと思います。ユダヤ教のシナゴーグではモーセ五書を1年周期で毎週読み続け、その各週の朗読箇所のことを「パラシャ」と言います。イエス様の時代も同様でした(ルカ4章17節参照)。ちなみにイエス様はこの時、イザヤ書が手渡されてイザヤ書61章のくだりを朗読しています。これは期せずして今日の礼拝でのモーセ五書の申命記30章の箇所と合わせて読まれる預言書(=ハフタラ)の箇所です。今週10月3日の日没からユダヤの新年(ローシュハシャナー)で、この日には角笛を吹き鳴らして主の新しい年を告げ知らせます。そのようにイエス様はイザヤ書と、ご自身の御声をもって、「主の恵みの年」の到来を高らかに宣言されたのでしょう。
◆ニツァビーム(立って)…各週のパラシャには呼び名がつけられていて、今日のパラシャは“ニツァビーム(立って)”です。おおむね該当聖書箇所の冒頭の単語から採られ、記憶しやすいようになっています。「きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている」(申命記29章10節)。パラシャは申命記29章10から30章20節、31章10節から30節、ハフタラはイザヤ書61章10節から63章9節、加えてメシアニックジューは関連する新約のルカ4章16節から30節です。この“立っている”というのはただ物理的に立っていることではなく、“地位につく”“任命される”という意味がある語です。何かしらのミッション(使命)があるということです。
◆心を包む皮を切り捨てる…ユダヤ人は生後8日目にラビが割礼を施します。一人のラビが皮を切除し、もう一人のラビが幼子を膝の上に抱えます。心の割礼は主がなさいます。人間の力では心を覆う厚い皮(世の煩い、誘惑、偶像)を取り除くことは不可能なのです。主が心の包皮を切り捨てて下さることで、主を愛し、いのちと祝福を選択して生きる者と変えられるのです。
◆結び…イエス様が新しい年、恵みに溢れる年を約束してくださっています。
Posted on 09/23/2024 at 10:23, by matsumoto
「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。(マラキ3章1節) /この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。(マタイ11章10節)
◆はじめに…昨日、『終わりに見た街』というテレビドラマを観ました。現代から第二次世界大戦の戦時下に大泉洋さんが父親を演じる家族がタイムスリップするという設定。大泉さんは「戦争を経験していない世代の人たちが戦時下に行ってしまった時、若い子たちは周りに流されていき、自分も国のために戦いたいという気持ちに変わっていくところ」に怖さを感じたと語っていました。
◆主に近づく…2022年5月からシリーズで「新約に引用されている旧約」を共にみことばに聞いてきましたが、いよいよ本日で最後になりました。毎主日礼拝で、旧約の主の愛と約束のバックボーンがあって、それに新約のイエス様のいつくしみと恵みが包み込んで下さることを実体験させて頂いたように思います。本日は、しばしば什一献金の奨励で取り上げられるマラキ書です。だからと言って、今回、献金のお奨めをする訳ではありません。主に向かう姿勢、あるいは心持ち、主に近づく道筋を共に確認する機会になるのではと願っています。
◆旧約最後の預言者…マラキは旧約最後の預言者です。活動した時期はバビロン捕囚解放後、約百年後になります。ユダヤの民の主に向かう姿勢はどのようなものであったというと、霊的に鈍感になっていました。主に対して「どんなふうにあなたが私たちを愛されたのですか?」(マラキ1章2節)「どんなふうに私たちがあなたの名をさげすみましたか?」(同6節)「どんなふうに私たちはわずらわしましたか?」(同2章17節)と、自分たちの正当化を繰り返しました。そんな中にあっても主は希望で預言を締めくくっています。「預言者エリヤを遣わす」「のろいでこの地を打ち滅ぼさないために」(マラキ3章5-6節)。その後4百年の間、預言は止みました。
◆ゼカリヤとザカリヤ…ゼカリヤの名の意味は「主は覚えておられる」と先週、学びました。また、バプテスマのヨハネの父は祭司ザカリヤですが、ザカリヤの名もまた「主は覚えておられる」です。そしてマラキは「わたしの使者」です。つまり主は祝福の約束を覚えておられ、4百年の時の橋を渡り、祝福のメッセージを持ち運ぶということです。祝福のメッセージはマラキからバプテスマのヨハネへと渡されました。そのメッセージの内容は、イエス・キリストです。
◆結び…祝福のメッセージが旧約時代から新約時代へ、そして私たちのところまで届けられ、イエス様に近づく道が日々備えられていることを感謝します。
Posted on 09/21/2024 at 06:23, by matsumoto
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(ゼカリヤ12章10節) /また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。(ヨハネ19章37節)
◆はじめに…「今がいちばん幸せ」「ずっと信じとった」十一年前、召天した義母(眞津代牧師の実母)が私たちに残した最期の言葉です。その幸せ(祝福)と信仰の内容はイエス様ご自身です。罪の贖い主、復活のいのちの贈り主イエス様との再会の希望です。
◆血と水の源…十字架の上で頭(こうべ)を垂れたイエス様の脇腹をローマ兵が槍で突き刺した時、血と水が流れ出たとヨハネ19章34節に記されています。「血」は贖罪の血を示し、「水」は再生の霊を意味します(ヨハネ7章37-39節)。この再生は水をバプテスマとして、そして贖罪の血を聖餐の葡萄汁として私たちは覚えています。その源流は、イエス様の脇から流れ出でました。またユダヤ教においては、仮庵の祭りの最終日に行なわれる「水汲みの儀式」として覚えられていました(ただユダヤ人には秘儀としてその意味は隠されていました)。
◆彼の骨は砕かれない…ヨハネ19章33、36節の出来事は、イエス様の十字架において出エジプト12章46節の成就として「骨を折らない」ことが事実として起ったがゆえに、イエス様は聖書に示された真実の過越の小羊、贖い主であることが明らかです。そのことを将来、イエス様が再臨される時、イエス様を突き刺したユダヤ人たちが傷跡を持ち給う主を見る時が来ると聖書は記しています(黙示録1章7節)。そのとき、アリマタヤのヨセフ、ニコデモ、そして使徒ペテロ、更にペンテコステの際に心を刺された3千人のユダヤ教徒のようにイエス様を見てその心が一変する時に来ることでしょう。
◆ゼカリヤ…ゼカリヤの名の意味は「主は覚えておられる」です。何を主は覚えておられるのでしょうか? ゼカリヤの父の名はベレクヤ=「主は祝福する」です。主は祝福の出来事を忘れないということです。ゼカリヤの祖父の名はイド=「時期を得た、タイムリー」です。では、主が覚えていないことは何でしょうか? それは“罪”です。「あなたの罪を思い出さない」(イザヤ43章25節)。主のなさることは、すべて時にかなって美しい(伝道者の書3章11節)のです。
◆結び…主は私たち一人ひとりを覚えていてくださり、タイムリーに祝福で満たしてくださる方です。贖い主なるあなたのほかに神はありません(イザヤ44章6節参照)。
Posted on 09/01/2024 at 21:34, by matsumoto
見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。/しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク2章4節) /なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1章17節他、ガラテヤ3:11、ヘブル10:38)
◆はじめに…先週、神学校の新約学講師だった瀬戸毅義先生が一冊の本を送ってくださいました。それは内村鑑三の著した『基督者のなぐさめ』を先生が改版して発行したものでした。還暦を過ぎた今、改めて読み返してみると、ひと言ひと言が心に沁み込んで来ます。最初の章に次のような件(くだり)があります。「神もし神なれば、何ゆえに余の祈祷を聞かざりや。神は自然の法則に勝つあたわざるか。あるいは祈祷は無益なるものなるか。あるいは余の祈祷に熱心足らざりしか。あるいは余の罪深きゆえに聞かれざりしか(…)」と。
◆ハバククの嘆きの訴え…ところで今日のテキストのハバクク書の著者ハバククの名の意味は“神に抱かれる者”です。ハバククの両親が主から愛され、主を信頼し、そして自分たち同様に主が息子を愛して下さり、その愛に息子が信頼して歩んでくれることを願ってその名を付けたのでしょう。事実、ハバククはその名の通りに成長したゆえに、ハバクク書冒頭にある嘆きのことばを率直に主にぶつけました。「助けを求めているのに、いつまで聞いて下さらないのですか! 叫んでいるのに救って下さらないのですか!」(ハバクク1章2節参照)と。それに対して主は答え、「カルデヤ人(バビロン)を起こす。」(同6節)と。しかしこれはハバククにとっては、不本意なことでした。「何で、カルデヤ人の暴虐を見過ごし、黙っておられるのですか!」(同13節)と嘆いています。私たちも同様です。祈りと願いが聞かれず、状況が自分の思いと違った(理解できない)不都合な方向に傾いていくとき、疑念と不満が募り主に嘆きます。
◆信仰義認…冒頭、内村鑑三の、祈りが聞かれない嘆きを記しましたが、続けて鑑三は次のように語っています。「余は余の愛する者の失せしより数か月間、(…)神なき人となり、恨みをもって膳に向い、涙をもって寝床に就き、祈らぬ人となるに至れり(…)汝は余が祈らざる故に捨てざりしなり。否、余が祈り時にまさりて、汝は余を恵みたり。余、祈り得る時は、汝の特別の恵みと慰めを要せず。余、祈る能(あた)わざる時、余は汝の擁護を要する最も切なり(…)余が宇宙の漂流者となりし時、その時こそ、汝が無限の愛を余に示し、余が汝を捨てんとする時、汝は余の後を追い、汝を離れ得ざらしむ」と。
◆結び…主は私たちが祈ることも出来ない困難な状況にある時、私たちを抱いておられます。義と認められた私たちはイエス様の真実の愛によって生きるのです。