Posted on 03/19/2017 at 21:27, by matsumoto

集会と活動のご案内

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイによる福音書11章28節)

どうぞ、お気軽に日曜日の礼拝にいらして下さい。お待ちしています。

《集会のご案内》

◇主日礼拝/日曜日 午後6時~7時半(現在スカイプ/nobuyuki matsumoto でリモート礼拝を行っています)

◇早天祈祷会/毎日 午前5時半~6時半

《教会活動のご案内》

◇キリスト教式結婚式・葬儀・記念会(自由献金)

◇訪問聖餐式・訪問礼拝(無料)

◇人生(霊性)相談/随時(電話および面談)(無料)

◇NPOアジアン・ブリッジ(アジアの子ども達への支援)

◇マザーテレサ写真展企画

お問い合わせは、

au 090-9935-7053

まで。

上記活動はすべて皆様の尊い献金によってなされています。感謝します。

なお、献金の送付先は以下の通りですので、よろしくお願いします。

ゆうちょ銀行
 
記号12110 番号346951
 
なまえ マツモト マツヨ
 
(他銀行からの振込みの場合
【店名】二一八【店番】218【預金種目】普通預金【口座番号】0034695)
Posted on 07/06/2025 at 21:31, by matsumoto

『人間の弱さと神の恵み』(ユダヤ人キリスト者と共に フカット)(2025.7.6)

モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。(民数記20章11節)

◆はじめに…昨年2024年の日本人の死亡数は160万5298人(政府統計)でした。その数は毎年増加傾向にあります。そんな中、今年も多くの有名人の方々の訃報が聞かれます。歌手のいしだあゆみさん(76歳)、プロ野球の長嶋茂雄さん(89歳)、脚本家のジェームス三木さん(91歳)等々。それぞれ各界で多くの功績を残し、今尚、生前の作品や生き様を通して人々に大きな影響を与えています。私たちも年を重ね、人生の日数を数える境涯に入って、残りの人生をどう有意義に、悔いのないように生きるのか、思い巡らすことが多くなって来たのでは、と思います。

◆感情に揺れる人間の姿とモーセの過ち…本日の主題であるモーセの不信仰は、人間の本質を映し出しています。神はモーセに「杖を取り、岩に命じよ」と明確に指示されました。しかし、モーセは神の言葉に背き、杖で岩を二度打ってしまいます。この不従順により、彼はアロンと共に約束の地に入ることを許されませんでした。なぜ、イスラエルの民を導いた偉大な指導者であるモーセが、このような過ちを犯したのでしょうか? その背景には、人間の感情の複雑さが横たわっています。聖書の記述から、この出来事の直前にモーセの姉ミリヤムが亡くなったことがわかります。愛する家族との死別は、私たちを深い悲しみと疲労に陥れ、正常な判断力を奪います。感情が乱れると、神の言葉ですら半分しか耳に入らず、意図せずして過ちを犯してしまうのです。私たちもまた、肉体を持つ死すべき存在として、同様の弱さを抱えています。人生には、たとえ努力しても到達できない目標や、志半ばで終わってしまう未来があることを認めざるを得ません。

◆青銅の蛇と十字架のキリスト…しかし、私たちの人生は、失敗や挫折で終わる無意味なものではありません。たとえ感情に振り回され、過ちを犯したとしても、主は人生の要所要所で私たちを用い、すべてを益としてくださる方です。モーセが岩を二度打つという過ちを犯した後も、神は彼に「青銅の蛇」を掲げるよう命じられました。「それを仰ぎ見れば、生きる」という言葉は、単なる治療を超えた、深い救いの予表でした。これは、まさに十字架のイエス・キリストによる救いの出来事を指し示しています。罪によって死すべき存在である私たちも、イエス・キリストの十字架を見上げることによって、永遠の命と救いを得ることができるのです。モーセの不信仰という人間の弱さが露呈した出来事の中に、神の揺るぎない愛と救いの計画が織り込まれていたことに、私たちは希望を見出します。

◆結び…新しい月の始まりに、私たちはイエス・キリストの救いの御業を、自身の生き様を通して世に表していけるよう、心から主に祈ります。

Posted on 06/29/2025 at 20:48, by matsumoto

『真のリーダーシップと平和への道』(ユダヤ人キリスト者と共に コラフ)(2025.6.29)

レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。民数記16章1-2節)

◆はじめに…現在も世界各地において紛争や内紛、そして侵略戦争が起き、多くの犠牲者や難民が発生しています。すべての人々が平和に暮らせる世界を望まずにはいられません。そんな中、米トランプ大統領が、強力な経済力と軍事力を背景に“力による平和”(=関税と軍事介入)を公言し、実行していますが、果たしてそれが持続可能な世界の平和に寄与するのか疑問に思うのは、私だけでしょうか? 私は“力によらない平和”の体現者、「柔和で、ろばに乗られる方」(ゼカリヤ9章9節、マタイ21章5節参照)に平和の希望を見ます。

◆コラ達の嫉妬(しっと)と扇動…今日のテキストは、モーセとアロンのリーダーシップに嫉妬したコラ達が企てた反乱(内紛)と、その結末の出来事です。コラ達と言うのは、コラとダタンとアビラムがその中心人物です。コラはモーセとアロンの従兄弟(いとこ)にあたり、「同じレビ族なのに何でモーセとアロンが民の上に立って、祭司職を独占してるのか」と言う不満がありました。ダタンとアビラムはルベン族、すなわちヤコブの長子の子孫ということで、「俺たちの方がレビ族より上で、むしろこちらに指導権があって然るべき」と言う秘めた思いがあったことでしょう。コラは、モーセとアロンのリーダーシップを認めず、自分こそリーダーシップを取る資格があるのだという本心は隠し、モーセとアロンに対して「分を越えている。全会衆残らず聖なるもの」(民数記16章3節)と建前の平等主義を訴えました。しかし彼らは指導者のいない共同体を望んでいたわけではありません。むしろ、指導者になることを望んでいたのです。彼らが求めていたのは真実ではなく、勝利(名誉、地位、権力)でした。

◆モーセの提案と執り成し…反乱を企てるコラ達に対してモーセは心を痛めつつ、対決の提案をし、主に執り成し、主に委ねました。結末は地がコラ達を飲み込み、二百五十人は焼き尽くされてしまうことに。この事態を目の当たりにしたイスラエルの会衆は翌日、モーセとアロンに「あなたがたは主の民を殺した」(民数記16章41節)とつぶやき、結果、疫病が拡がり、間髪入れず、モーセはアロンに民の贖いをするよう指示しました。真のリーダーは民がどのように反抗的であっても、心を痛め、執り成し、贖いをする、この託された使命を全うする者です。

◆結び…真のリーダーであるイエス様が新しい週も、私たち一人ひとりのために執り成し、贖って下さることに感謝します。

Posted on 06/22/2025 at 21:34, by matsumoto

『変化への挑戦』(ユダヤ人キリスト者と共に シュラフ)(2025.6.22)

「ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることはできない。」(民数記14章30節)

◆はじめに…先主日は民数記8章2節の七つのともしび皿にスポットを当ててみことばを聞きました。七つのともしび皿はすべて同じ高さになるようにメノラーは作られていて、それはすべての存在、いのちは主の前に“平等”だということと、幹から両脇に伸びる6枝の上のともしび皿は、中央の幹の上のともしび皿の方を向いて整えられ、それは主イエス様の方を向いているということで、ヘブル書12章2節「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」のみことばの現れであり、メノラーのともしびをメンテナンスする奉仕の奥義だということでした。そして私にとっては、重症心身障害者のケアが、一つひとつの“いのちの光”を灯し続けるメノラーの奉仕だとお話しました。

◆変化への向き合い方…今日のテキストは、民数記のカナンの偵察の箇所です。これは私たちに「マインドセット」の重要性を教えてくれます。12人の斥候が同じ状況を体験したにもかかわらず、ヨシュアとカレブだけが肯定的な報告を持ち帰ったのはなぜでしょうか? それは、彼らが変化を恐れず、それを成長の機会と捉える「成長マインドセット」を持っていたからです。一方で、残りの10人は失敗のリスクを恐れ、現状維持を望む「固定マインドセット」に囚われていました。変化に直面したとき、私たちはどちらのマインドセットを選ぶかによって、未来が大きく変わるのです。

◆賜物を活かす勇気…イエス様が語られた「タラントのたとえ」は、このマインドセットと深く結びついています。それは、「失敗を恐れることなく、あなたがた一人ひとりに与えられた賜物(タラント)を思う存分用いなさい」というメッセージです。たとえ自分が「バッタのよう」だと感じたり、自分の能力が取るに足らないものだと思ったりしても、イエス様は、私たちにその賜物を用いることを求めておられます。私たちがタラントを用いるその場所こそ、すでに神の御国なのです。恐れを手放し、与えられた能力を最大限に活かす勇気が、私たちを約束の地へと導く鍵となります。

◆結び…信仰とは、ただ信じるだけでなく、その信仰に基づいて行動することです。ヨシュアとカレブは、約束の地に入るという神の誓いを信じ、困難を乗り越える力を選び取りました。彼らのように、私たちもイエス様から目を離さず、与えられたタラントを恐れることなく用いるとき、たとえ目の前に大きな障害が見えたとしても、神様が私たちに備えてくださっている豊かな場所(御国)へと進むことができます。

Posted on 06/15/2025 at 19:36, by matsumoto

『メノラーと信仰の学び』(ユダヤ人キリスト者と共に ベ=ハアロテハ)(2025.6.15)

「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」(民数記8章2節)

◆はじめに…昨日の土曜日、父の通院同行をしてきました。父の訴えは、コーヒーを飲むと、胃の手前付近の食道で詰まってしまうというものです。診察室に父と一緒に入って、以前カメラを飲んで撮影した写真をパソコンで見ながら医師が言うには「食道が一般よりも捻じれているが、物理的に食べ物が詰まるような状態は見られない」ということで、「今処方している漢方薬を続けて、不快感が2割でも3割でも緩和したら良しというぐらいですね」とのこと。物が詰まっていないのに詰まっていると認識してしまう訳ですから、体内の感覚センサーが誤作動しているのかも知れません。体内のメカニズムは本当に繊細です。年齢を重ねるということは、身体の不具合と折り合いをつけて(メンテナンスをして)生きる知恵を学ぶことと言えるのではないかと思います。

◆メノラーの奉仕が示す神の寛容と委託…先主日は民衆の要求に屈し、金の子牛像を造り、偶像礼拝に加担するという痛恨の失敗をした(出エジプト記32章1-6節参照)にもかかわらず、主はその失敗したアロンとその子孫に「イスラエル人を祝福せよ」(民数記6章23節)と、祝福を祈る役割を託されたことを学びました。それに続き本主日は、そのアロンに主がモーセを介して聖所におけるメノラーのともし火を灯す奉仕を指示する箇所から、みことばを学びます。今までにメノラーについては何度も学んでいますが、何度学んでもみことばの奥義が次から次に光のように輝き現れるのがメノラーの学びのようです。

◆七つのともしび皿に見る「平等」と「信仰の焦点」…今日のテキスト民数記8章2節に七つのともしび皿が出てきます。それらは、すべて同じ高さになるようにメノラーは作られています。意味するところは高低差、上下関係や優劣はなく、すべての存在、いのちは主の前に“平等”だということです。また、幹から両脇に伸びる6枝の上のともしび皿は、中央の幹の上のともしび皿の方を向いて整えられます。中央のともしびは一日中、消えることはありませんでした。つまり、永遠なるいのちの光、主イエス様の方を向いているということになります。まさしくヘブル書12章2節「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」のみことばの現れです。メノラーのともしびをメンテナンスする奉仕をアロンは託され、その奉仕をすることで日々、主から生きる知恵を学んでいたことと思います。

◆結び…それぞれ具体的な悩みを抱えながらの日々の働きと信仰の歩みを、主イエス様が、私たち自身の生きる知恵を育む機会としてくださるよう祈ります。

Posted on 06/08/2025 at 19:35, by matsumoto

『主の愛と祝福はどこまでも』(ユダヤ人キリスト者と共に ナソ)(2025.6.8)

主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。(民数記6章24-26節)

◆はじめに…五旬節の季節が巡り、黄金色の麦畑が広がるこの時期は、私たちに収穫の喜びと、神聖な出来事を思い起こさせます。五旬節は元来、小麦の収穫を祝う祭りであり、モーセがシナイ山で十戒を授かった記念日でもあります。キリスト教会では、この日を「教会の誕生日」として記念します。使徒の働き2章1節にあるように、「すべての心(心臓)がひとつになった(集まった)」ところに聖霊が降り、キリストの体である教会が力強く活動を始めた日と言えるでしょう。

◆失敗を乗り越えるアロンへの託された祝福…この五旬節に際し、私たちは民数記6章24-26節にある「アロンの祝福」に深く耳を傾けたいと思います。この祝福の言葉は、その背景にあるアロンの物語を知ることで、より一層その意味を深めます。モーセがシナイ山で律法を与えられている間、アロンは山の下の民衆の指導を任されていました。しかし、モーセがなかなか戻ってこないことに不安を感じた民衆は、「私たちに先立って行く神を造ってください」とアロンに迫ります。アロンは民衆の要求に屈し、金の子牛像を造り、偶像礼拝に加担するという痛恨の失敗を犯してしまいました(出エジプト記32章1-6節参照)。

◆主の赦しと愛の証としての「アロンの祝祷」…しかし、驚くべきことに、主はその失敗したアロンとその子孫に「イスラエル人を祝福せよ」(民数記6章23節)と、祝福を祈る役割を託されました。偶像礼拝という主への背信行為を行ったアロンは、民を祝福する資格など自分にはない、と心底自覚していたことでしょう。それにもかかわらず、そのような自分を用いて民を祝福するという主の深い愛と寛容さを、彼は誰よりも強く感じたに違いありません。このシンプルでありながらも美しい「アロンの祝祷」は、現在もユダヤ教、キリスト教を問わず、様々な場面で広く祈られています。この祈祷文は、あらゆる祈祷文の中でも特に古いものの一つとして知られており、かつてヒノムの谷(ゲヘナ)の埋葬洞窟の床下に隠された部屋から、長さ1インチにも満たない小さな銀の巻物として発見されたという歴史的な事実も、その尊さを物語っています。

◆常に私たちに御顔を向けられる主…主は、いつも私たち一人ひとりに御顔を向け、私たちを気遣い、祝福してくださるお方です。いなくなった一匹の羊が見つかるまで探し続ける牧者のように、私たちを慈しんでくださいます。主は自らが呪いを背負い、私たちに祝福を与え、私たちのいのちを満たしてくださいます。

◆結び…主の愛、主の祝福が届かない場所はどこにもありません。

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