Posted on 03/19/2017 at 21:27, by matsumoto

集会と活動のご案内

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイによる福音書11章28節)

どうぞ、お気軽に日曜日の礼拝にいらして下さい。お待ちしています。

《集会のご案内》

◇主日礼拝/日曜日 午後6時~7時半(現在、対面での礼拝とTeams/nobuyuki matsumoto でのリモート礼拝のハイブリッドで行っています)

◇早天祈祷会/毎日 午前5時半~6時半

《教会活動のご案内》

◇キリスト教式結婚式・葬儀・記念会(自由献金)

◇訪問聖餐式・訪問礼拝(無料)

◇人生(霊性)相談/随時(電話および面談)(無料)

◇NPOアジアン・ブリッジ(アジアの子ども達への支援)

◇マザーテレサ写真展企画

お問い合わせは、

UQ 090-9935-7053

まで。

上記活動はすべて皆様の尊い献金によってなされています。感謝します。

なお、献金の送付先は以下の通りですので、よろしくお願いします。

ゆうちょ銀行
 
記号12110 番号346951
 
なまえ マツモト マツヨ
 
(他銀行からの振込みの場合
【店名】二一八【店番】218【預金種目】普通預金【口座番号】0034695)
Posted on 04/18/2026 at 06:23, by matsumoto

ユダヤ人キリスト者と共に タズリア(2026.4.19)

《聖書箇所》レビ記12:1-13:59/②列王記4:42-5:19/ルカ2:22-24,5:12-16,7:18-23

 

《ギホンの泉》~分かち合いの呼び水~

『孤独の壁を溶かす指先』

聖なる宿営の 外側で

「汚れている」と 叫ばねばならぬ孤独

誰の手も届かない 荒野の果てに

律法という 峻厳な壁がそそり立つ

それは 死の影をまとう境界線

神からも 人からも 隔てられた場所

私たちは 自分の傷を隠しては

誰にも触れられぬよう 震えていた

けれど 見よ

預言者のパンは 百人の飢えを満たし

異邦の将軍は ヨルダンに身を浸す

恵みの雫は 密やかに

境界線の足元を 濡らし始めていた

そして ついに

静寂を破り 聖なる方が歩み寄る

掟(おきて)は「離れよ」と命じるが

愛は「触れよ」と 指先を伸ばす

汚れた肌に 触れる温もり

それは 汚れに染まる手ではなく

汚れを 聖さへと 飲み干す光

呪いという沈黙が 癒やしの歓喜に変わる

もう 独りで叫ぶ必要はない

主の指先が 私たちの壁を溶かしたから

癒やされた者は 証し人となり

閉ざされた宿営の門を

愛という名で 開け放っていく

 

Posted on 04/12/2026 at 20:29, by matsumoto

ユダヤ人キリスト者と共に シェミニ(2026.4.12)

《聖書箇所》レビ記9:1-11:47/②サムエル記6:1-19/マルコ7:1-23

 

《ギホンの泉》~分かち合いの呼び水~

 

天降(あまくだ)る 火に震えつつ ひれ伏しぬ 主の栄光の 満ちる祭壇

(レビ記9章:神の火が降り、人々がその圧倒的な聖さに平伏した場面)

主の前(まえ)に なりふり構わず 踊る王 畏(おそ)れと喜び 一つに溶けて

(Ⅱサムエル記6章:ダビデが契約の箱の前で、恐れつつも心から喜んで踊った姿)

器(うつわ)より 先(まず)洗うべき 己が内(うち) 口先のみの 祈り虚しく

(マルコ7章:外側を整える形式主義に対し、内面の汚れを問う主の言葉)

口に入る 糧(かて)に汚れは なきものを 人の心ぞ 闇を吐き出す

(マルコ7章:人を汚すのは外からの食べ物ではなく、内から出る悪意であるという教え)

形式(かたち)越え 砕かれし霊(たま) 捧ぐとき まことの祭壇 ここに築かれん

(まとめ:形式を越え、悔い改めた心を捧げることこそが真の礼拝であるという結び)

 

Posted on 04/05/2026 at 17:56, by matsumoto

ユダヤ人キリスト者と共に ツァフ&イースター(2026.4.5)

《聖書箇所》レビ記6:8-8:36/エレミヤ書7:21-8:3/

マルコ12:28-34,ローマ12:1-2,①コリント10:14-23

 

《ギホンの泉》~分かち合いの呼び水~

『復活の命に燃えて ―神に喜ばれる生きた供え物―』

  1. 絶やしてはならない聖なる火(レビ記)

祭壇の火は絶えず燃え続けなければなりませんでした。これは、神との交わりが一時的なイベントではなく、日常のすべてにおいて継続されることを示しています。祭司たちが朝ごとに薪をくべたように、私たちの信仰も日々、聖霊の火によって新しくされる必要があります。イエス様の復活は、罪の死によって、消えかけていた私たちの心に消えることのない「命の火」を再点火した出来事なのです。

  1. 形式主義への警告と愛の成就(エレミヤ書・マルコ福音書)

しかし、人間はしばしば「形」に囚われます。エレミヤは、従順を伴わないいけにえを神が喜ばれないと警告しました。イエス様が語られた通り、神が真に求めておられるのは、全焼のいけにえよりも「心を尽くし、知恵を尽くして神と隣人を愛すること」です。キリストの十字架と復活は、律法の要求を満たすだけでなく、私たちが「義務」ではなく「愛」によって神に応答する道を開きました。復活の主と出会うとき、宗教的な義務感は、生きた喜びへと変えられます。

  1. 今、自分自身を捧げる(ローマ書・Ⅰコリント)

パウロは、復活の恵みにあずかった者の生き方を「自分自身を神に喜ばれる聖なる生きた供え物として捧げること」だと定義しました。これは、特定の場所での儀式に留まらず、社会生活、家庭、人間関係のすべてにおいて「神の御心」を選択し続ける歩みです。Ⅰコリント10章でパウロが教えるように、私たちは主の食卓(聖餐)に連なり、キリストの体の一部とされました。偶像(自分を神とする生き方)から離れ、復活の命を分かち合う一つの体として歩むことが、現代における「霊的な礼拝」です。

結び:復活の命を証しする

復活祭の喜びは、空になった墓を眺めることではなく、復活の主が今も私たちの内に生きておられることを確信することにあります。かつての祭壇の火がそうであったように、私たちの生活という祭壇に、愛と献身の火を絶やさず灯し続け、この世の価値観に流されることなく、日々新しくされる心をもって、神に喜ばれる「生きた供え物」として歩んでいきましょう。

Posted on 03/29/2026 at 18:10, by matsumoto

ユダヤ人キリスト者と共に バ・イクラ(2026.3.29)

《聖書箇所》レビ記1:1-6:7/イザヤ書43:21-44:23/

ローマ8:1-13,ヘブル10:1-14,13:10-16

 

《ギホンの泉》~分かち合いの呼び水~

 

『門の外、恵みの庭で』

祭壇に昇る煙の向こう

レビの記した血の贖(あがな)い

聖なる神へ近づくために人は命を身代わりに立てた

けれど、繰り返される儀式の中に良心の乾きは癒えず

神の嘆きはイザヤの唇(くち)から漏れる

「あなたは、いけにえで私を敬わなかった」

影は去り、実体が現れる

唯一の「小羊」が門の外へ

ゴルゴタの丘で、ただ一度だけ永遠の傷がすべてを覆った

「完了した」という叫びと共に垂れ幕は裂け、道は開かれた

もはや雄牛の血を求める声はなく

キリストの愛が、私を包む

今、定めの鎖は断ち切られローマの風が御霊を運ぶ

肉の渇きに従う日は終わり命の息吹が内に宿る

恐れは去り、愛する子として

アバ、父よ、と叫ぶ自由

律法(おきて)は石板(いし)ではなく心に刻まれ

歩みそのものが、祈りへと変わる

持てるすべてを器に満たし

賛美のいけにえを捧げよう

それは唇からこぼれる感謝の果実

それは隣人と分かち合う善き行い

キリストが歩まれた、その門の外へ

恥を忍び、喜びを抱いて

私たちの生活(くらし)という祭壇に

生きた礼拝の火を灯し続けよう

Posted on 03/22/2026 at 19:30, by matsumoto

ユダヤ人キリスト者と共に ペクデイ(2026.3.22)

《聖書箇所》出エジプト記38:21-40:38/①列王記7:51-8:21/黙示録15:5-8

 

《ギホンの泉》~分かち合いの呼び水~

 

主の栄光、幕屋に満ちて

指先が覚えている、金の重みと布の感触

「主の命じられた通りに」

その一言を積み重ね、私たちは幕屋を立てた

人間の最善を尽くし、祈りの場所を整えたとき

空から降りた聖なる雲が、すべてを優しく、厳かに包み込んだ。

かつて父が夢見た約束の場所

ソロモンが築いた石の神殿に、またも雲が立ち込める

祭司たちはその光に圧倒され、ただ立ち尽くすばかり

神の住まいは、人の知恵を超えた場所

歴史を貫く「真実」だけが、そこを支える柱となる。

視線はさらに、開かれた天の窓へ

「証しの幕屋」から立ち上る聖なる煙

裁きと救いが交差する、究極の聖所

そこはもう、古い幕屋でも、滅びる神殿でもない

神の正義と愛が、永遠に鳴り響く場所。

ああ、主よ

今、私たちの心という名の小さな幕屋を

あなたの御言葉で整えさせてください

不完全な私たちの歩みが、あなたの栄光に触れるとき

そこは、あなたが住まわれる「天の入り口」となる。

 

 

 

アーカイブ ログイン お問い合わせ