Posted on 03/19/2017 at 21:27, by matsumoto

集会と活動のご案内

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイによる福音書11章28節)

どうぞ、お気軽に日曜日の礼拝にいらして下さい。お待ちしています。

《集会のご案内》

◇主日礼拝/日曜日 午後6時~7時半(現在スカイプ/nobuyuki matsumoto でリモート礼拝を行っています)

◇早天祈祷会/毎日 午前5時半~6時半

《教会活動のご案内》

◇キリスト教式結婚式・葬儀・記念会(自由献金)

◇訪問聖餐式・訪問礼拝(無料)

◇人生(霊性)相談/随時(電話および面談)(無料)

◇NPOアジアン・ブリッジ(アジアの子ども達への支援)

◇マザーテレサ写真展企画

お問い合わせは、

au 090-9935-7053

まで。

上記活動はすべて皆様の尊い献金によってなされています。感謝します。

なお、献金の送付先は以下の通りですので、よろしくお願いします。

ゆうちょ銀行
 
記号12110 番号346951
 
なまえ マツモト マツヨ
 
(他銀行からの振込みの場合
【店名】二一八【店番】218【預金種目】普通預金【口座番号】0034695)
Posted on 07/22/2024 at 08:42, by matsumoto

『誠実とあわれみの主』(新約に引用されている旧約 その96)(2024.7.21)

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア6章6節) /『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9章13節、12章7節)

 

◆はじめに…全国高校野球福岡大会で福大若葉高校がベスト4に進出。そして明日22日(月)、同系列の強豪、福大大濠高校との準決勝に。お互いリスペクトしあって、勝っても負けても選手一人ひとりの、そして私たちにとっても記憶に残るような試合になると、期待しています。

◆当事者性…その若葉高校の監督は「当事者性」「リスクを取れ」とインタビューで語っています。また「うちの野球は『ザ・筋書きのないドラマ』。シナリオはない」とも。監督と選手、そして選手間相互の信頼関係で、常識の枠を超える思いきったプレーが随所に見られました。観ていて爽快でした。

◆ホセア…ホセアの名の意味は“救い”。当時イスラエルは宗教的、道徳的、社会的腐敗がまん延していました。イスラエル王国崩壊の危機、将来の見通せない混沌とした世のただ中で、父ベエリ(ホセア1章1節)が子に名づけたのです。主は、このホセアに預言を託しました。その混沌としたイスラエルの社会の中にあって主はホセアに姦淫の女だったゴメルをめとるように言われました。ホセアは自身の結婚生活を通して、イスラエルの民を愛する主ご自身を、身をもって知っていきました。主はいけにえは好まず、誠実とあわれみに満ち満ちた方なのだと言うことを。

◆主のあわれみの実際…主は、ご自身を「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(ホセア11章8節)「わたしは命に満ちた糸杉」(同14章9節/新共同訳)とおっしゃっています。イエス様は、このホセアの口を通して語られた主のあわれみがどのようなものなのかを、取税人マタイと食事を共にすることで(マタイ9章9-13節)、そして安息日に麦の穂を摘んで食べることで(同12章1-8節)、大胆に表されました。私たちそれぞれの日々の生活の場で主のあわれみと誠実を体験し、深く知り、学び、つながらせてくださるイエス様が私たちのうちに、そして傍らにおられ、導いて下さっています。

◆結び…私たちの身の回りの状況や全世界の状況がどのような状況になったとしても、主は、私たちを決して見捨てず、誠実とあわれみをもって励まし、力づけ、救いあげて下さることを信じて、感謝します。

Posted on 07/14/2024 at 20:06, by matsumoto

『みことばの励まし』(新約に引用されている旧約 その95)(2024.7.14)

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。(ダニエル7章13節) /そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです(マルコ13章26節)

◆はじめに…映画『キングダム』の最新作の劇場公開日(7月12日)に合わせ、3週連続で前3作が「金曜ロードショー」で放映されていました。舞台は春秋戦国時代の中国。「戦国の七雄」と呼ばれる七大国(斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙)が覇権を競う中、戦乱の世を終わらせるべく中華の統一を志す、嬴政(えいせい/後の秦始皇帝)と、その志に賛同する側近の活躍を描いた中華戦国大河ドラマ。いかに志や理想が高くても、いつの世も人間は争いを繰り返す他ないのでしょうか?

◆ダニエル…バビロン捕囚は中華戦国時代から遡ること約3百年。ここでも戦乱の世界が展開していました。ダニエルらは捕囚の地バビロンで、数多の苦難、迫害に遭いました。しかし「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます」(ダニエル3章17節)「私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださった」(同6章22節)と、主に信頼して屈することはありませんでした。

◆夢、幻を見る…ダニエルは、“獣”の夢と幻によって、バビロン帝国の他、様々な王国(と王たち)が次々に台頭して来ることを悟らされます。地上において力を奮う王国は、どんなに王が有能であったとしても、結局は罪人が自らの欲望を欲しいままにする“獣”の支配でしかあり得ないし、限りがあることを物語っています。その一方でその人間の王たちが支配する王国の幻の中で、まったく次元の異なる幻を見ました。「人の子のような方が天の雲に乗って来られ、その国は滅びることはない」(ダニエル7章13-14節他)と。ダニエルはこの幻があまりにも現実離れしていて、荘厳な故、その意味が分からず、悩み、脅え、顔色が変わるほどだったとあります。

◆みことばの励まし…ダニエルは血筋、知恵、知識において申し分がありませんでしたが、幻の意味が分からず、病にもなり(ダニエル8章27節)、力もうせてしまう(同10章8、9、17節他)こともありました。しかしその都度、主はダニエルを「神に愛されている者よ、恐れるな」という“みことば”によって力づけられました。苦難に耐える力は、時に適ったみことばによって与えられます。

◆結び…私たちの身の回りの状況や全世界の状況がどのような状況になったとしても、主は、その都度、みことばと天使を遣わして、私たちを励まし、力づけ、救いあげて下さることを信じて、感謝します。

Posted on 07/07/2024 at 15:16, by matsumoto

『強くしてくださる主』(新約に引用されている旧約 その94)(2024.7.7)

わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる(エゼキエル37章27節) /神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(②コリント6章16節)

◆はじめに…孫が部活で野球をしていますが、毎回試合前には「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4章13節) のみことばを祈って、そして試合に臨んでいると言っていました。ひと言のみことばが私たちの内に根付き、どれほど力づけ、立ち上がらせてくださるか、みことばの力を改めて知らされています。

◆エゼキエル…エゼキエルはバビロン捕囚期に活躍した預言者(兼祭司)です。捕囚5年目に「天が開け、神々しい幻=ビジョン、異象を見」(1章1節)、その後、主の御声を聞き、召命を受けました。「その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちに入り…」(2章2節)とありますから、御言葉=霊であることが分かります。幻と霊によってエゼキエルは立ち上がりました。エゼキエルの名の意味は“神が強くしてくださる”

◆息を吹き入れる…捕囚の中で、イスラエルの民は祖国を失い、自分自身を失い、茫然自失となり、希望を失っていたことでしょう。その中でエゼキエルは希望の預言を語りました。「新しい心を与え、新しい霊を授ける」「石の心を取り除き、肉の心を与える」(36章26節)「おまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」(37章5、9、14節)。“枯れた骨”は捕囚と離散によって身体的精神的霊的に絶望し、“生きた屍(しかばね)”状態に陥っているイスラエルの民の象徴です。しかし、どんなに失望、絶望状態にあっても、主は、見捨てず見離さず、みことば(預言)と主の息、すなわち主の霊、聖霊を注がれ、再び希望に生きる者としてくださいます。イスラエルの民同様、私たちもその主の愛からもれることはありません。

◆新しい神殿の幻…エゼキエルは新しい神殿と新しい町のビジョンを語りました。主の栄光が満ち(44章4節)、「水が神殿の敷居の下から流れ」(47章1節)、「川のほとりの果樹は毎月、新しい実をつけ」(同12節)ました。生きとし生けるものが、いきいきと生きる町の名は『主はここにおられる=アドナイ・シャマ』(48章35節)。主がともにおられる時、私たちは最も私たちらしく、神の息子、娘として自由に、輝いて生きることが出来ます。

◆結び…この礼拝を通して、主の愛が一人ひとりに注がれ、主との親密さが更に深められ、神の子どもとして新しい一週間を生きられるよう、祈ります。

Posted on 06/30/2024 at 15:38, by matsumoto

『新しい契約を結ぶ』(新約に引用されている旧約 その93)(2024.6.30)

見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。(エレミヤ31章31-34節) /しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家とユダの家と新しい契約を結ぶ日が。(…)」(ヘブル8章8-12節)

◆はじめに…病気で仕事を休むと当然のことですが、労働の対価としての収入が無くなります。倹しい生活をしているゆえ、蓄えがある訳でもなく、唯々、主に助けを祈る他ありません。空の鳥を養い、野の花を装ってくださる主です。私たちの必要をすべてご存知な方です。朝ドラで次のようなセリフがありました。“愛は理想を超え、奇跡を生む”。私たちの神、主は愛です。愛によって主は私たちを生かしてくださいます。そしてこのように今日も感謝と喜びの礼拝を捧げさせてくださいました。主は愛の方で奇跡を起こされる方です。ハレルヤ!

◆エレミヤ…先主日に続き、エレミヤ書がテキストです。内村鑑三はエレミヤ書(またエレミヤ自身)について次のように言っています。「余の特愛の預言者はエレミヤである、余はイザヤを尊崇し、エゼキエルを敬畏し、ダニエルを歎賞する、然しエレミヤに至っては余は彼を親愛する(…)旧約聖書人物中で余が最も親しんだ者は此の「涙の預言者」である」「ヱレミヤはユダヤが産んだ最大の預言者である。彼の外に数多の預言者があったが、預言は彼に於て其絶頂に達したと云ふ事が出来る。ヱレミヤの偉さは、彼の時代に照合して彼の預言を読んで見て判明る。ヱレミヤが解らずして聖書は解らない。又イエス キリストは解らない」。

◆新しい契約…エレミヤは、人類の歴史上「新しい契約」という言葉を最初に語った人と言えます。もちろんエレミヤの独創ではなく、すでにエレミヤを預言者として召し出すことをお定めになっておられた、主のみこころでした。エレミヤを愛し、召された主は、エレミヤ同様、私たち一人ひとりを愛し、赦し、生かしてくださっています。「新しい契約」とは、“主の律法を心に書きしるす”ことであり、その内容は“咎を赦し、罪を二度と思い出さない”ことです。言い換えれば、私たち罪人を古い人から新しい人へと創造される、そして事実、新しい人に創造されているということです。パウロを通して語られたみことばで言えば「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(②コリント4章16節)でしょう。

◆結び…主にあって新しい週、主の新しい契約(イエス様の裂かれた肉と流された血)によって、赦され、生かされる“新しい人”として、いのちの水の源なる宝(栄光に輝く復活のいのち=聖霊)を内に宿し、平安と将来と希望をもって共に励まし合いながら歩ませて頂けることを感謝します。

Posted on 06/23/2024 at 16:17, by matsumoto

『主を誇る』(新約に引用されている旧約 その92)(2024.6.23)

 

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。──主の御告げ──(エレミヤ9章24節) /まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(①コリント1章31節)

◆はじめに…体調を崩してからほぼ一カ月。最初の二週間は今までに経験したことのない苦しさでした。仕事のことが頭から離れず、精神的緊張感から胸苦しさと動悸で起き上がれない日々が続きました。今も緊張感から来る胸苦しさはありますが落ち着く時も徐々にでき、その時には本を読んでみる気持ちになりました。どうぞ引き続きお祈りくだされば感謝です。

◆病床の祝福…そんな中で、『病床の祝福』を改めて読み直しました。この本は皆さんにもご紹介したことがありますが、私たちの恩師・李天秀牧師が、自らの病床で主から受けた祝福の体験を基本に書かれた本です。その最初の部分には次のように書かれてあります。「あなたは今、あなたの人生の中で一番重要な時期におかれています(…) 病床で一日を生きるのには健康な時よりもっと沢山の代価を払って生きねばなりません(…) 患者を苦しめ、最もダメージを与えるのは不安な考えです。これからどうなるか分からない恐れ、心配です。このような考えが次から次へと浮かんで来ると、体はベッドの上で安静にしていても、胸が騒いで熱が出ます。眠れないし治療の効果もろくに出ません(…) 今、あなたはこんな状況から抜け出すために、心(魂)の扉を開き、天国のいのちの水の川に 全身浸っている自分を想像してみてください。もしあなたが無理やり明るいもの 健康なものを想像しようとしたら、あなたの心身は疲れ果てているため、精神的にもっと疲れます。ですから何も心配せず、あなたの魂を主の胸の中に抱かれるようにしてみて下さい(…)」

◆主を誇る体験…病気になると、不甲斐なく、役に立たない、無力な自分自身の姿を見せつけられます。出口が見えず、にっちもさっちもいかなくなり、塞ぎ込んでしまいます。自分を誇ることはできません。自分を誇ることができないからこそ主に依り頼む絶好の機会となり、主を誇る貴重な体験になります。まさに“病床の祝福”です。実際に、天国から流れるいのちの水に全身を浸って、イエス様の懐に抱かれている自分をイメージすると、病が徐々に癒されていくのを肌身で実感しました。癒し主なるイエス様に感謝します。確かに主は今の瞬間、生きておられ、確かに病を癒し、私たちを救ってくださる方です。主は私(たち)の誇りです。

◆結び…新しい週、お互いが主を誇る一週間となるよう祈ります。

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