Posted on 08/19/2023 at 23:03, by matsumoto
私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。(詩篇41篇9節) /わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。(ヨハネ13章18節)
◆はじめに…先週金曜日、家内が名古屋から帰って来ました。隣に住む方も家内の帰りを歓迎してくれました。約1カ月半にわたる単身生活は終わり、再び夫婦二人三脚、イエス様も一緒ですから三人四脚の生活が再スタートしました。一人暮らしで、家計のこと、炊事洗濯掃除買い物の日常生活の大変さを経験したことで、今後の家庭生活の幅が拡がるのでは、と感じています。
◆かかとを上げたユダ=アヒトフェル…今日のテキストの詩篇41篇の背景は、ダビデ王に反旗を翻した息子アブシャロムに組みしたアヒトフェルが、アブシャロムに進言したダビデ王殺害計画があります(②サムエル記17章2節)。アヒトフェルはダビデの議官をしており、ダビデの信頼を得ていました。ダビテ王に対する裏切りです。しかし、その計画は失敗に終わり、彼は首をくくって自死しました(②サムエル記17章23節)。つまり、詩篇41篇9節の親しい友とはアヒトフェルを指し、この詩篇を引用したイエス様は、今まさに自身を売ろうとしているユダの振る舞いの予型だと示しているのでしょう。確かにユダはイエス様に“かかとを上げた”のです。しかし自身の行ないを“後悔”し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返そうとしたことがマタイ27章4節に記されてあり、かかとをイエス様に対して振り下ろすことはなかったと言えます。ただ残念なことにユダは自分自身に、かかとを振り下ろし、自死しました。自分で自分を裁き、罰したのです。
◆裏切っても自死してもなお…イエス様は、繰り返し「互いに愛し合いなさい」と語られ、愛を具体的にあらわすべく、弟子たちの足を洗われました。そして食事を共にしました。たとえ裏切ったとしても、自死したとしても、あなたの尊厳が損なわれることは決してない、わたしがあなたを包み込んでいる、そう復活のイエス様は語られ、祈られているのではないでしょうか。
◆結び…イエス様は、私たちの足を洗ってくださいます。食卓を共にしてくださいます。愛し、赦し、包み込んでくださいます。イエス様のみこころに促され、私たちも互いに愛し、赦し、包み込んで生きる日々であるよう祈ります。
Posted on 08/12/2023 at 23:30, by matsumoto
あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました(からだを造ってくださいました/70人訳)(詩篇40篇6節) /ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。」(ヘブル10章5節)
◆はじめに…先週は、台風6号直撃の影響でフェリーが欠航し、結局、本島の知人宅に3泊することに。「時化で島に帰れない」という事態は、移住の準備段階の時から想定内のことでしたので、心の準備も含め、あらかじめ着替えも2日分用意していました(が3泊は想定範囲を超えていました)。実際、私自身よりも、スタッフや利用者さんの方が心配してくれ、しみじみ人の優しさを感じました。
◆神の喜望するささげ物…今日のテキストの主題は、「神の喜望するいけにえ(ささげ物)」です。それは、旧約の律法に記されている儀式・礼典のための何千何万もの動物や植物、たとえしみや傷がないものであっても、不完全なささげ物ではなく、“唯一無二のイエス様のからだ”です。イエス様は世界の創造される以前は「ことば」「霊」そのものでしたから、霊の身体はありましたが、私たちと同じ肉体はありませんでした。詩篇40篇1節で「主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、」とあります。イエス様は、父なる神と共に天にいて、身を乗り出して、私たちの叫び、祈りに耳を傾けておられる、憐れみ深き、愛なる方です。愛なる方は天に留まっていることは出来ず、“思い余って(溢れる愛ゆえに)”人となって世に来られたと、ヨハネ福音書は伝えています(ヨハネ1章14節)。イエス様は第二のアダムとして闇の世を照らし、混乱の世を、ガリラヤの片隅から回復の御業をなされました。
◆御心に生きる…イエス様は、その生涯を父なる神様の御心に忠実に歩まれました。その歩みは私たちの模範、ロールモデルであり、人生の根拠であり目的です。ひと言で言えば、御心に生きるとは、「神と人を愛する」ことに尽きます。「友のためにいのちを捨てるという、これより大きな愛はだれももっていない」とイエス様はおっしゃいました。事実、私たちの完全な救い(贖い)のために、自身のいのちを父なる神様にささげられ、地上生涯をまっとうされました。私たちのからだは、イエス様に贖われた、新しいからだ(聖い、活きたからだ)です。
◆結び…私たちは主イエス様の贖いによって、神の喜望するからだ、毛虫(あるいは蛹(さなぎ))から蝶に変えられて(メタモルフォーシスされて)いるのです。イエス様に新しく変えられた者として、御心に従って生きられるよう願います。
Posted on 08/06/2023 at 04:49, by matsumoto
偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください(詩篇35篇19節) /これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法(=旧約聖書全体)に書かれていることばが成就するためです(ヨハネ15章25節)
◆はじめに…梅雨も明け、夏本番。全国的にモーレツに暑い日が続いています。夏バテ、脱水症、熱中症等々、体調を崩しやすいので適切に健康管理をして、夏を乗り切りたいと思います。ただ健康管理をできる人は良いのですが、通所リハの利用者さんの中には、家族の目を気にして、あるいは、少ない年金生活で節約するために冷房を使わず、暑い隠居部屋にこもっているような方もみられます。身体のリハビリも大事ですが、社会、家庭におけるリハビリ=名誉回復も必要不可欠だと思わされます。
◆理由なき憎悪(差別、抑圧)…ところで先日、恩師に会いに出かけたことをお話ししました。その恩師が設立に関わった「大牟田恵愛園」という障害者支援施設があります。その基本理念はヨハネ15章12節『わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』に基づくものです。その中で、“社会の中で差別・抑圧され、弱い立場に立たされている方々と出会い、生の声に耳を傾け、そこから学ぶ視点を大切にする”という項目があります。“差別・抑圧される”と言うのは、言い替えれば“理由なき憎悪”と言えるでしょう。
◆愛…とするなら、“愛する”というのは、社会(世)から“理由なき憎悪”の憂き目に遭っている人の側に立つことを意味するのでしょう。イエス様はご自身、お生まれになったときから、地上生涯を終えるまで、“理由なき憎悪”に晒され続けて来られました。どれほど、もどかしい思い、悲しい思い、憤りを味わったことでしょうか? そのイエス様が、捕らえられ、不当な裁判にかけられ、十字架に掛けられる、ほんの数時間前に、今日のテキストのヨハネ15章を、告別説教として語られたの。理由なき憎悪を嘗(な)め尽くしたイエス様だからこそ、今、経済的、心理的、性的な抑圧、差別、偏見のために苦しんでいる人の側に立ち、『豊かに実を結ぶようにする、あなたはもうきよい、わたしの愛の中にとどまれ、わたしの“友”よ、わたしがあなたを選んだ、わたしの名によって父に求めるものは何でも、父がお与えになる』と、私たちの存在理由を明らかにされたのです。“あなたはわたしの大切な、愛する者”
◆結び…私たちの周囲の環境がどうであっても、主は私たちを愛し、共に生きてくださっています。
Posted on 07/29/2023 at 22:11, by matsumoto
あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな(詩篇34篇13節) /舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず(①ペテロ3章10節)
◆はじめに…先週の月曜日、職場で社内研修会がありました。内容は、①口腔ケア②身体拘束防止③虐待防止についてでした。「以前、学んだから、それくらい知っているし、やれている」と思い込んでいることがあるなあと、どれも改めて勉強になりました。今一度、自分の介護技能のレベルを振り返り、基本に立ち返る必要を感じました。きっと、これは仕事としての介護に留まらず、日常生活全般、牧会(魂への配慮)についても同様だと思います。もっとも興味深かった学びは、虐待(拘束)の一種である“スピーチロック”でした。スピーチロックとは言葉で相手の行動を制限することです。条件反射的に使ってしまうものとして「ちょっと待ってください」という一言もスピーチロック、すなわち虐待(拘束)だということです。しかし、みことばなるイエス様は、私たちを自由にしてくださるためにこの世に来られ、さらに聖霊様を遣わされました。スピーチロックに対して、イエス様は、みことばで私たちを“スピーチフリー”してくださいます。みことば(真理)によって解放してくださり、自由にしてくださり(ヨハネ8章32節参照)、行動変容(主に近づき、みこころのために過ごす)をさせてくださいます。
◆ソロモンの知恵…ところでダビデの子ソロモンは、夢で主なる神様から「与えて欲しいものを願え」と言われた際、(自分のためでなく)民を正しく導く知恵を主なる神様に願いました(①列王記3章1-28節)。その知恵のひとつを現したエピソードが「二人の遊女に対する裁き」として記されています。ソロモンは今日のテキストにある舌を悪口、欺きを語らないことにとどまらず、その舌を積極的に用いて、歴史に残る、あっぱれな“名裁判”をしました。また、主なる神様はソロモンに、知恵に加えて、長寿、そして富と誉れをも与えると約束してくださいました。しかしすべてには限りがあります。実際、ソロモンの齢は80歳でした。
◆真理(知恵そのもの)なるイエス様…聖書(ルカ福音書2章)は、イエス様が成長し、知恵が満ち溢れる様を記しています。イエス様は父なる神様の知恵そのものであり、イエス様はご自身を「道であり、真理であり、いのちです」(ヨハネ14章6節)と伝えています。さらに「わたしはよみがえり」(同11章25節)と語られ、事実、死から復活されました。しかも、霊として陰府(よみ)に降り、捕われの霊に、みことばを宣べられ、解放されたのです。今も、救い(解放)の御業(スピーチフリー)を続けておられます。
◆結び…主のすばらしさを味わい、見つめ、主の証し人としての一週間となりますように。
Posted on 07/23/2023 at 06:20, by matsumoto
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。詩篇32篇1節) /ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである」(ローマ4章6-7節)
◆はじめに…先主日は恩師と会うため大牟田へ出かけ、大牟田フレンドシップ教会の礼拝に出席しました。執事さんによる教会学校のメッセージ、牧師のメッセージを聞き、それぞれのメッセージを通して聖霊様の感動を覚えました。みことばを聞くことの祝福は何にも代えがたいものがあります。私たちの弱さをよくご存じの主の憐れみに感謝します。
◆罪とは何か…私たちは、耳にタコができるくらい、「罪」「罪人」という言葉を聞いています。では、その罪とは何ですか? と問われたらどう答えるでしょうか。聖書(みことば)が問うているのは、数え上げることのできる複数形の罪、すなわち法律的な意味での「罪」ではなく、数え上げることのできない、本質的な罪、すなわち“原罪”です。創世記のアダムとエバのエデンの園でのエピソードで語られている罪です。つまり、神様を無視して神様から離れていること、神様から逃げて隠れていること、神様を神様として認めず、畏れない生き方、的外れな生き方です。別の言い方をすれば自己中心的な生き方です。自分は正しい、自分さえ良ければと、他を押しのけて、何よりもまず自分の欲望(願望)を実現しようとする生き方です。その罪の性質はすべての人が持っている性質です。
◆罪赦され、覆われて…実際に罪の性質ゆえに、過ちを犯したとき、私たちは、その痕跡を隠そうとします。あるいは自分の所在を隠そうとします。仮に一時的に隠すことに成功したとしても、胸は疼(うず)き、恐れ、不安が纏わりついて離れなくなります。そのことをダビデは詩篇32篇3-4節で回想しています。罪そのもの、罪ゆえに犯した過ちは、自分の力(行い)では解決不能です。別の道が必要なのです。罪あるまま、主の前に出る道です。私たちが向きを変えて主の元へ歩もうと決心したとき、主の方から一方的に罪のとがめを赦してくださることをダビデは体験しましたし、イエス様ご自身も「放蕩息子のたとえ話」を通して、父なる神の愛と赦しを語ってくださっています。
◆結び…罪人なる私たち一人ひとりの弱さ、そして胸の疼き、苦しさをご存じの主は、「あなたはどこにいるのか?」「わたしのところへ帰ってきなさい」と、御手を広げて招いておられます。幸い、祝福への通路は常に私たちの前に開いています。ありのままの私たちの姿で、ともに主の御許に近づきたいと願います。