Posted on 05/26/2024 at 16:55, by matsumoto
わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ56章7節) /そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21章13節)
◆はじめに…先週、体調不良で職場をほぼ一週間、お休みしました。夜中に目が覚め、その後眠ることが出来なくなり、朝、精神的緊張が解けず、胸苦しさを感じるという具合でした。そんな時、「祈ってるよ」と言う一言が一縷の救いでした。また、近くの自然公園で川のせせらぎの音や鳥のさえずりを聞き、夜には蛍が飛んでいると聞いたところまで車を走らせ、蛍の放つほのかな光や月明かりを見て、癒されました。隣人の祈りと神様の御手の業、被造物のいのちに触れて、人は暗闇から輝きを取り戻すことができるのでしょう。
◆宮きよめ…イエス様は既に一度、宮きよめを行なっていることがヨハネ福音書2章13-21節から分かります。今日の箇所で二度目の宮きよめです。それは一度きよめられた宮が再び汚されたからです。ご自身を「宮よりも大きな者」(マタイ12章6節)と語られたイエス様は、ただ単にエルサレムの神殿をきよめるために宮きよめをしたのではなく、また、人の手によって造られたエルサレムの宮で商売をする欲深き人を追い出し、人々がここに来て祈るようになることを望んだのでもありません。ご自身が真の宮であるイエス様が、最後の審判の時、すべての罪、汚れを除くことの予表として宮きよめをなされたのです。
◆枯れたいちじくの木…つまり、エルサレム神殿の霊的復旧でも復興でもなく、復活した天の御国“新天新地”“新エデンの園”の到来を予表する一連の御業でした。宮きよめの後、イエス様は、ベテパゲ(「いちじくの家」の意)で、いちじくの木を枯らすという御業を行なわれました。季節外れで実を付けなかったとは言え、枯らしてしまうと言うのは…?と思わないではありません。しかし動物のいけにえをもって人を罪から贖い、生かすことが神様のあわれみと愛のしるしであり、さらに私たちに永遠のいのちを与えるために、ご自身のいのちを贖いの小羊として献げられたことを思うなら、一本のいちじくの木を枯らすことも、神様のあわれみと愛のしるしだったのではないでしょうか? 事実、そうなのです。
◆結び…ベツレヘム(パンの家)で生まれ、ベタニヤ(柔和な家)でラザロを生き返らせたイエス様が、ベテパゲ(いちじくの家)でいちじくを枯らし、ご自身の家であるベテピラ(祈りの家)で贖いとなられるために過越祭に宮へ入られたのです。
礼拝賛美
「聖い御霊よ」
いま聖い御霊よ
この私を満たしてください
主の御座から流れ
この私をきよめて下さい
御霊にあふれ生きる
主の栄光あおいで
御霊にあふれ生きる
主の御業あおいで
「威光・尊厳・栄誉」
世界中どこででも
新しい歌をささげよ
主に歌え ほめたたえよ
御救いの知らせを告げよ
まことに主は大いなる方
賛美されるべき方
威光と尊厳と栄誉
光栄と力
ただ主だけを 礼拝せよ
天を創り 支えている主
「とわに礼拝します」
賛美 栄光 主イエスに
われらの神 救い主に
誉れ 力 すべては
主よ あなたのものです
とわに主よ あなたを
あがめます
とわに主よ あなただけを
礼拝します
「主はあなたを守る方」
主はあなたを守る方
右の手をおおう陰
昼の日も夜の月も
打つことがない
主はあなたを守る方
すべての苦しみから
あなたを守られる
とこしえに守られる
目をあげ山を見よ
頼れる方はただ
天地すべて 造られた
神様だけ
「わが力なる」
わが力なる主
われを清めたもう
あなたはわが全て
心をつくして
あなたを求める
主はわが神
イエス神の小羊主よ
その御名に
栄光あれ
わが罪あがない
十字架にて死なれ
よみがえられたイエス
わが病いやし
渇き満たされる
主はわが神
イエス神の小羊主よ
その御名に
栄光あれ
「主の栄光宮に」
主の栄光 宮に
主の平和 うちに
主の喜びが満ち溢れる
イエスの御名により
罪きよめられ
いま聖霊が心に住まわれる
Posted on 05/12/2024 at 17:07, by matsumoto
あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。 (イザヤ54章13節) /預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書いていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところにきます。(ヨハネ6章45節)
◆はじめに…先週の火曜日の朝、私の勤務する障害者支援施設「恵愛園」の朝礼で、ショートメッセージを語る機会がありました。ルカ福音書の“失われた一匹の羊”をテキストにしました。その中で、たった一人、私の語るのをじっと耳を傾けて聞いて、その後の活動時間の時も、今まで見たことのない満面の笑みを浮かべていきいきと過ごしているように見受けられました。みことばが彼の霊に触れ、しっかりとイエス様が彼をつかまえていることを実感しました。
◆平安…今日のテキストのイザヤ54章は、バビロン捕囚によって崩壊し廃墟となったイスラエルが再び回復させられる預言です。主の愛は変わることなく、主が結ばれる平和の契約は動きません。どんな武器で攻められても、どんなに問責されても私たちに対する主の安全保障は完全です。すなわち平安=シャロームです。どんな恐れをも遠ざけます。恐れを寄せ付けず、支配されません。
◆イエス様の懐…イザヤ書54章13節で「平安がある」と訳されてあるところが、ヨハネ福音書6章45節では「わたしのところにきます」となっています。つまり、平安とは“イエス様の懐”だということです。イエス様の懐に行くには、私たち自身の力や能力ではなくて、父なる神様自らが引き寄せてくださり、イエス様に与えてくださいます。そしてイエス様の懐に抱かれた私たちをひとりも失うことなく、終わりの日によみがえらせてくださることが、父なる神様のみこころだと、イエス様が語られます。
◆主の教えを信じる…イエス様は、これをカペナウムの会堂で教えられ、自らを天から下って来た“いのちのパン”と語られました。それを聞いたユダヤ人、そして多くの弟子たちは「あれはヨセフの子ではないか」「ひどいことばだ」と言い、つまずき、離れていきました。続く7章には「(イエスの)兄弟たちもイエスを信じていなかった」と記されてあります。私たちも含め、人間は何と頑ななまでに信じない者なのでしょう。にもかかわらずイエス様は福音を語り続け、父なる神様を十字架に至るまで信じ抜きました。それは同時に、イエス様は私たち一人ひとりを徹底的に信じ抜き、愛し抜かれたと言うことができるでしょう。
◆結び…イエス様は、今日も私たちと共にいて下さり、私たちを信じ抜き、愛し抜かれておられます。そして私たちを平安で満たしてくださいます。
Posted on 05/05/2024 at 09:01, by matsumoto
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった(…) (イザヤ53章4節) /(…)彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。(マタイ8章17節)
◆はじめに…毎週土曜日の午後、目の不自由な方の朗読のボランティアに出かけていることは以前、お話しました。その朗読している『苦海浄土』の裏表紙には次のように書かれています。「公害という名の恐るべき犯罪、“人間が人間に加えた汚辱”、水俣病。昭和二十八年一号患者発生来十余年、水俣に育った著者が患者と添寝せんばかりに水俣言葉で、その叫びを、悲しみ怒りを自らの痛みとして書き綴った《わがうちなる水俣病》。凄惨な異相の中に極限状況を超えて光芒を放つ人間の美しさがきらめく。」
◆苦難のしもべ…今日のテキストのイザヤ53章は、“第五福音書”とも呼ばれるほど、有名で重要な箇所です。そして「苦難の僕」の姿をとったメシヤとして預言され、新約においてイエス・キリストの姿において実現したとキリスト教界は解します。しかしながらユダヤ教のラビ(ほんの一部の除き)たちはそのようには理解せず、シナゴーグにおいてもイザヤ53章の朗読は意図的に避けています。それほどイザヤ53章はユダヤ教にとっては不都合な箇所であると言えます。逆に言えば、ここに、ユダヤ教、キリスト教双方の枠を超えた真理(真実)が秘められています。
◆イエス様による病のいやし…マタイ8章はイエス様の数々のいやしの御業が記されてあり、それらのいやしの御業が、預言者イザヤの預言の成就の出来事の現れなのだとマタイは記しています。それは十字架の出来事によって完全に成就しました。病人のいやし然り、十字架の罪の贖い然り、イエス様は出会う人々の切なる訴えを聞き(傾聴)、また弱り果て、困り果てている状態を見、心動かされ、魂を揺さぶられ(共感、共苦)、父なる神に祈り、御声を掛け、手を伸ばし、いやされました。病、悩み、痛みを自分事として引き受け(共担)、傍らにおられ、同伴(インマヌエル)しました。まさに病で伏している幼子に添寝するようにイエス様は私たちと共にいて下さいます。それは世の終わりまでです(マタイ28章20節)。
◆病とわずらいのただ中で…病、わずらい、痛み、苦しみは、私たちが生きている限り、身に降りかかってきます。時に耐えられず、神の存在を疑ってしまうこともあるかも知れません。見失ってしまうことがあるかも知れません。しかし、その苦難のただ中に、背きのただ中に、イエス様が同伴して下さっていることも事実です。そして絶えず、とりなしの祈りをもって私たちを支えて下さいます。
◆結び…イエス様は、いつも私たちと共にいて下さいます。
Posted on 04/28/2024 at 17:30, by matsumoto
良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。(…) (イザヤ52章7節) /遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」(ローマ10章15節)
◆はじめに…先週22日は、私たちの結婚記念日でした。恩師/福井正躬牧師の司式にて、南名古屋キリスト教会で結婚式を執り行って頂きまました。思い返してみると、結婚に際して、私が眞津代牧師に伝えたことは、①“薄皮の大福もち”②“盲導犬”役になりましょう、でした。今もその心持ちは変わらないのですが、実際となると甚だ心許ない限りです。
◆キリストから引き離されても…今日のテキストのローマ書10章を9章からの文脈で見てみると、その冒頭、パウロは次のように語っています。「(…)できることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」(ローマ8章3節)と。同胞イスラエル人が救われるためだったら、自らの生きた心臓をそのまま差し出し、死んで黄泉に降ることも厭わないとの覚悟です。
◆主の愛は選民ユダヤ人に止まらない…その自らを完全に差し出す覚悟をもって、使徒として福音を告げ知らせている、それはすべて主のあわれみと愛のご計画なのだ、そうパウロは10章全体を通して語っています。そしてその主のあわれみと愛は同胞ユダヤ人だけに止まらず、異邦の民、すべての民にまで及んでいるのだと語りました。
◆主の愛とあわれみ…主は、ご自身のあわれみと愛を、異邦人とイスラエルの民双方に対してどのように現したのか、10章の最後の2節で語っています。「(…)わたしを求めない者に見いだされ、たずねない者に自分を現した」「(…)不従順で反抗する民に対して、一日中、手を差し伸べた」と。そのことをパウロ自身がもっとも良く理解していたことでしょう。キリスト者迫害の急先鋒として立っていたところに、復活のイエス様が直接、御声を掛けられました。しかも罰したり、断罪したりするのではなく、福音の使者として用いてくださったからです。イエス様は、罪の世、闇の世に迷える一匹の羊を、その足で見つけるまで捜し回り、見つけたら、担いで大急ぎで帰って来られます。そして言われます。「いなくなっていた者を見つけましたから、一緒に喜んでください」(ルカ15章4-6節参照)
◆結び…イエス様は、今日この瞬間も道に迷い、途方に暮れている尊い一つひとつの魂を、その足で捜し回っておられます。
Posted on 04/14/2024 at 19:39, by matsumoto
(…)わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする (イザヤ49章6節) /『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』(使徒13章47節)
◆はじめに…先週の水曜日の夜、大川キリスト教会の祈祷会に参加させて頂きました。み言葉の箇所は「イサクの誕生といけにえ」ということで創世記21章1節から22章19節でした。試練に直面したとき、み言葉に信頼して試練に立ち向かい、その結果、祝福される、というアブラハムの体験から、祈祷会の参加者一人ひとりの試練と祝福の証しを分かち合いました。大きな事故だったり、病いの試練を通して主が祝福して下さったそれぞれの証しから感動と励ましを受けました。
◆ユダヤ人の闇(迫害)を貫通して…今日のテキストの主題は「異邦人の光」です。パウロとバルナバは、聖霊に遣わされ、まず同胞であるユダヤ人に対して福音を語り(光を照らし)ました。しかし、ユダヤ人(の指導者層)は、光より闇を愛し、光を憎み、光のほうに来ませんでした(ヨハネ3章19-20節参照)。使徒の働き13章から本格的な異邦人伝道が始まったことが記されてありますが、その最初の出来事がローマの属州だったキプロス島の総督セルギオ・パウロが信仰にはいったことです。その後、パウロたちはピシデヤのアンテオケに移動し、会堂で宣教をする機会を得、大胆にイエス様の福音を語りました。いずれの場所においても、ユダヤ人の妬み、ののしり、迫害に遭いました。しかしユダヤ人が神のことば(福音)を拒んだことで、パウロらの異邦人伝道の歩みは加速していきました。かと言って主は、ユダヤ人(イスラエル人)をあきらめ、見放した訳ではなく、むしろ完全に救いに導くご計画を着実に進めておられることを、パウロはローマ書で語っています(ローマ11章25-28節参照)。
◆異邦人の光は…第一回伝道旅行で迫害に遭った際、パウロとバルナバは、今日のテキストの箇所を語りました。「『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」と。このみことばを聞いた異邦人は主を賛美し、信仰にはいり、一方でユダヤ人はパウロたちを地域から追い出し、益々、イエス様(いのちの光)を遠ざけました。
◆地の果て(底)まで救う…しかし、ユダヤ人がいのちの光なるイエス様を遠ざければ遠ざける程、異邦人は救われ、誰一人として主の愛からもれる者はなく、究極的にはユダヤ人も異邦人もすべての者が永遠のいのちに与り、とこしえにイエス様の愛のうちに生きる者となる、これが主のご計画に他なりません。
◆結び…新しい一週間も、主が御顔の光を照らしてくださることを感謝します。