Posted on 04/28/2024 at 17:30, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『良い知らせを伝える者の足』(新約に引用されている旧約 その85)(2024.4.28)

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。(…) (イザヤ52章7節) /遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」(ローマ10章15節)

◆はじめに…先週22日は、私たちの結婚記念日でした。恩師/福井正躬牧師の司式にて、南名古屋キリスト教会で結婚式を執り行って頂きまました。思い返してみると、結婚に際して、私が眞津代牧師に伝えたことは、①“薄皮の大福もち”②“盲導犬”役になりましょう、でした。今もその心持ちは変わらないのですが、実際となると甚だ心許ない限りです。

◆キリストから引き離されても…今日のテキストのローマ書10章を9章からの文脈で見てみると、その冒頭、パウロは次のように語っています。「(…)できることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」(ローマ8章3節)と。同胞イスラエル人が救われるためだったら、自らの生きた心臓をそのまま差し出し、死んで黄泉に降ることも厭わないとの覚悟です。

◆主の愛は選民ユダヤ人に止まらない…その自らを完全に差し出す覚悟をもって、使徒として福音を告げ知らせている、それはすべて主のあわれみと愛のご計画なのだ、そうパウロは10章全体を通して語っています。そしてその主のあわれみと愛は同胞ユダヤ人だけに止まらず、異邦の民、すべての民にまで及んでいるのだと語りました。

◆主の愛とあわれみ…主は、ご自身のあわれみと愛を、異邦人とイスラエルの民双方に対してどのように現したのか、10章の最後の2節で語っています。「(…)わたしを求めない者に見いだされ、たずねない者に自分を現した」「(…)不従順で反抗する民に対して、一日中、手を差し伸べた」と。そのことをパウロ自身がもっとも良く理解していたことでしょう。キリスト者迫害の急先鋒として立っていたところに、復活のイエス様が直接、御声を掛けられました。しかも罰したり、断罪したりするのではなく、福音の使者として用いてくださったからです。イエス様は、罪の世、闇の世に迷える一匹の羊を、その足で見つけるまで捜し回り、見つけたら、担いで大急ぎで帰って来られます。そして言われます。「いなくなっていた者を見つけましたから、一緒に喜んでください」(ルカ15章4-6節参照)

◆結び…イエス様は、今日この瞬間も道に迷い、途方に暮れている尊い一つひとつの魂を、その足で捜し回っておられます。

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