Posted on 05/12/2024 at 17:07, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『主の教え』(新約に引用されている旧約 その87)(2024.5.12)

あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。 (イザヤ54章13節) /預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書いていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところにきます。(ヨハネ6章45節)

◆はじめに…先週の火曜日の朝、私の勤務する障害者支援施設「恵愛園」の朝礼で、ショートメッセージを語る機会がありました。ルカ福音書の“失われた一匹の羊”をテキストにしました。その中で、たった一人、私の語るのをじっと耳を傾けて聞いて、その後の活動時間の時も、今まで見たことのない満面の笑みを浮かべていきいきと過ごしているように見受けられました。みことばが彼の霊に触れ、しっかりとイエス様が彼をつかまえていることを実感しました。

◆平安…今日のテキストのイザヤ54章は、バビロン捕囚によって崩壊し廃墟となったイスラエルが再び回復させられる預言です。主の愛は変わることなく、主が結ばれる平和の契約は動きません。どんな武器で攻められても、どんなに問責されても私たちに対する主の安全保障は完全です。すなわち平安=シャロームです。どんな恐れをも遠ざけます。恐れを寄せ付けず、支配されません。

◆イエス様の懐…イザヤ書54章13節で「平安がある」と訳されてあるところが、ヨハネ福音書6章45節では「わたしのところにきます」となっています。つまり、平安とは“イエス様の懐”だということです。イエス様の懐に行くには、私たち自身の力や能力ではなくて、父なる神様自らが引き寄せてくださり、イエス様に与えてくださいます。そしてイエス様の懐に抱かれた私たちをひとりも失うことなく、終わりの日によみがえらせてくださることが、父なる神様のみこころだと、イエス様が語られます。

◆主の教えを信じる…イエス様は、これをカペナウムの会堂で教えられ、自らを天から下って来た“いのちのパン”と語られました。それを聞いたユダヤ人、そして多くの弟子たちは「あれはヨセフの子ではないか」「ひどいことばだ」と言い、つまずき、離れていきました。続く7章には「(イエスの)兄弟たちもイエスを信じていなかった」と記されてあります。私たちも含め、人間は何と頑ななまでに信じない者なのでしょう。にもかかわらずイエス様は福音を語り続け、父なる神様を十字架に至るまで信じ抜きました。それは同時に、イエス様は私たち一人ひとりを徹底的に信じ抜き、愛し抜かれたと言うことができるでしょう。

◆結び…イエス様は、今日も私たちと共にいて下さり、私たちを信じ抜き、愛し抜かれておられます。そして私たちを平安で満たしてくださいます。

You can follow any follow up comments to this entry through the RSS 2.0 feed.

Comments are closed.

アーカイブ ログイン お問い合わせ