Posted on 07/22/2018 at 00:59, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『カナの婚礼』(イエス・キリストの生涯 その27)(2018.7.15)

 

イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。(ヨハネ2章7節)

  • はじめに…①昨日、エルサレム~荒野~主の巡られた各地をビデオで見ました。“百聞は一見にしかず”です。②しかし私たちは疑い深い者です。ナタナエルは言いました。「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハネ1章46節)。主は、疑い深い者には、それにふさわしく臨んでくださいます。しかし、主が真実に望んでおられるのは「(外側を)見ずに信じる者」(ヨハネ20章29節)です。
  • 先に見る方…イエス様は、私たちがイエス様を見出す前に、遥か彼方から私たち(ナタナエル)を見出しておられる方(霊的先見者)です。
  • 天へのはしご…「神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、見ます」(ヨハネ1章51節、創世記28章12節“ヤコブのはしご”)。「わたしを通してでなければ、父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14章6節)。イエス様が天へのはしごです。神と私たちをつなぐ“とりなしの祈り”です。
  • IoT…最近、頻繁にAIとかIoTとか言われています。2020年には、IoTの市場規模が3百兆円になるそうです。IoTとは、「Internet of Things(インターネット・オブ・スィングス)」の略で「モノのインターネット」です。センサーと通信機能が組み込まれたモノがインターネットを通じてあらゆるモノと繋がり、互いの情報・機能を補完・共生し合う状態(SNSもその一例)で、パソコンやスマホに、家庭や職場、街中のあらゆるモノを取り込み、活用することによって人間社会をより豊かにすることを目指しています。しかし、霊的な世界におけるIoTはInterpretation of Tongues(異言の解き明かし)と言えます。イエス様(天)とつながっていることの証しです。パウロは“第三の天”にまで引き上げられ、天使のことばを聞いた(Ⅱコリント12章2、4節)と語っています。そして「弱いときにこそ、強い」(Ⅱコリント12章10節)とパウロは語りましたが、現実的に行き詰まった時、そこに神の力が働き、主の栄光があらわれ、恵みが与えられます。
  • ぶどう酒がありません…そんなひとつの出来事が「カナの婚礼」でした。カナはナタナエル(=“神は与えられる”の意)の出身地だったと思われます(ヨハネ21章2節)。「ぶどう酒がありません」とマリヤはイエス様に訴えました。しかしイエス様は「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2章4節、他同7章6、8節参照)。“時が来た”ことを告げられたのは、ヨハネ12章23節および同13章1節「自分の時が来たことを知られ(…)愛を残るところなく示された」とあるように、最後の晩さんの時であり、つまり過越の祭の時であり、ご自身を百パーセント与え尽くされる時です。
  • わたしはまことのぶどうの木(ヨハネ15章1節)…イエス様はぶどうの木で、父は農夫です。多く実を結ぶために余分な枝の“刈り込み”をされます。それは常識や言い伝え、誤解や偏見、利己主義的な思いです。それを切り取る訳ですから、その痛みを主ご自身も共感されるのです。あなたがたは枝(同5節)ですから、あなたがたがわたしにとどまるなら、わたしもその人の中にとどまる、そうして多くの実を結ぶ(同5節)と。それは、わたしの戒めを守ること。わたしの戒めとは、互いに愛しあうこと(同12節)、そうイエス様は語られました。
  • 水がめに水を満たしなさい(ヨハネ2章7節)…(あのビデオで観た)石の水がめいっぱいにイエス様のみことばに従って、水を満たしたのです。どれほどの労力と時間を要したでしょうか? もし私たちが水がめだとしたら、ぶどうの木を育てるために労された農夫なる父は、どれほどの愛を込めて不完全な私たちに聖なる水を注いだでしょうか? しかし、ぶどう酒が足らないのに、水を水がめいっぱいに水を注ぐ…。どう考えても不合理です。しかし、これがイエス様の福音、恵みの世界です。
  • 結び…イエス様は後になればなるほど良いものを出してくださる方です。私たちの手持ちがゼロになったとき、みことばに従って行動すると、無尽蔵のイエス様の愛の力が注がれ、必要が満たされるのです。
Posted on 07/08/2018 at 20:30, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『わたしについて来なさい』(イエス・キリストの生涯 その26)(2018.7.8)

 

イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。(ヨハネ1章35-51節)

  • はじめに…ヨハネはイエス様を見て「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)、「神の小羊」(同35節)。彼が指し示すメシアとは過越のいけにえの小羊(出エジプト12章)、受難のしもべ(イザヤ53章7節)であるにも関わらず「この方こそ神の子」と言います。それはユダヤの人々が待ち望むメシア(王)の姿とはあまりにもかけ離れていました。この一週間後、イエス様はカナの婚礼において大いなる事をされ、人々にメシアであることを示されました。
  • あなたがたは何を求めているのか…ラビ(師)であるバプテスマのヨハネに促されて、弟子のアンデレとヨハネはイエス様について行きます。“弟子になりたい”と思う人は、自分が選んだラビについて行きます。そこでラビが「あなたは何を求めているのか」と言うと「どこにお泊りですか」と尋ねます。「来なさい」と言われたら師弟関係の成立です。「あなたと何の関係がありますか」と言われたら不成立です。これはユダヤ教の習慣です。イエス様は「来なさい」と言われました(同38-39節)。この後、バプテスマのヨハネは、ヘロデ・アンティパスに捕えられます。そこでイエス様はアンデレたちが生活をしていた所へ行き「私について来なさい」と声をかけられました(マタイ4章12-22節)。これはユダヤ教の習慣から逸脱した行為ですが、歩み寄って下さる神の方法(愛)です「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです(…)」(ヨハネ15章16節)
  • 心を探り知って下さる主…アンデレたちはイエス様の本質(神の小羊)を見抜くことなく従いました。しかしイエス様は弟子たちを見抜かれます(ヨハネ1章41-51節)。ユダヤ人なら必ず神の国に入れる、そこで高い地位につくために律法を守る。これが当時の人々の、そして弟子たちの考えでした。「この中で誰が(天国で)一番偉いか」(ルカ22章24節、マタイ18章1節)。そのような弟子たちの心を知りながらも歩み寄り、裁くことなく憐れまれました。そして豊かな実を結ぶ者として任命されました。エルサレム議会から厳しい視線を浴びつつも、心を探り、知って下さるイエス様の大きな愛に励まされ、歩んだ弟子たちです(詩篇139篇1-4、23、24節)
  • 結び…「わたしについて来なさい」とイエス様は声をかけて下さいます。一人ひとりの心の傷や痛みを知って下さるイエス様と共に安心して歩む一週間となりますように。
Posted on 07/04/2018 at 10:39, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『神のことばは滅びない』(イエス・キリストの生涯 その25)(2018.7/1)

 

私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。(ヨハネ1章31節)

  • はじめに…「こんなに頻繁に地震や洪水が世界各地で起こっている。また自国ファースト主義を唱える国もあり、世界のバランスが崩れてるよね。戦争もいつ勃発してもおかしくない状況だし、地球は滅びるんじゃないの」と友人は不安そうに言いました。果たして私たちの住むこの地はどうなるのでしょうか?
  • あなたはどなたですか(ヨハネ1章19節)…ヨルダン川でバプテスマを授けているヨハネのうわさを聞きつけ、エルサレムの議会は人を遣わし尋ねます。議会は、異端者に対して厳しく取り締まっていました。ヨハネに対しても「あなたはどなたですか」、つまり、どのような身分で、このような活動をしているのか問いただしたのです。それに対してヨハネは「神のことばに従って水でバプテスマを授けている」「自分のあとから来られる方の靴のひもを解く値打ちもない」と告白します。ヨハネは徹底して神の前に、そして人の前に謙遜な姿勢を貫きました。
  • 私もこの方を知りませんでした(ヨハネ1章31、33節)…そのような告白をしたにも関わらず、この方を知らなかったとは不思議な話です。なぜヨハネは自分の人生をかけて、このような活動をすることができたのでしょうか。彼を突き動かしているのは、人からの称賛や名誉ではなく、神のことばに信頼し、聞き従う、従順な思いでした。その活動はイエス様へとバトンタッチされ、いのちへとつながりました。そしてそのバトンはイエス様から私たちに。そしてさらに次の世代へとバトンが渡されるよう願っています。
  • 私は見たのです(ヨハネ1章34節)…イエス様がバプテスマを受けて後、祈っておられると、聖霊が鳩のようにイエス様の上に降って来ました。バプテスマのヨハネはそれを見たのです。その光景は前もって神がヨハネに語られていた事でした。ヨハネは、それを心にしっかりと留めていたのでしょう。それで、この方こそ神の子、メシアであると確信したのです。それから約40年後、ローマ軍によってイスラエルはAD70年に崩壊します。しかし神の約束通り1948年にイスラエルの国は再建されました。どのような時代にあっても神のことばを心に留めていく時に、神が下さる愛のチャンスに気づきます。
  • 結び…時代がどのようであっても、神の愛のことばは変わらず滅びません。いのちにつなげて下さる神のことばに信頼し歩む一週間となりますように。
Posted on 06/25/2018 at 21:58, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『荒野の試み』(イエス・キリストの生涯 その24)(2018.6.24)

 

イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。              (マタイ4章10-11節)

  • はじめに…この世は、欲望(あるいは快楽や興味)を喚起する情報が溢れています。もちろん、それらすべてを遠ざけ、禁欲的に生きることもどうかと思います。さまざまな欲望を呼び起こすこの世の中で、私たちはどのような生き方の可能性があるのか、聖書のみことばにはどのような指針が示されてあるのかを今日のテキストから見てみたいと思います。
  • 3種類の誘惑…イエス様は、バプテスマの後、①食欲の惑わし(荒野で)②生命の惑わし(神殿の頂で)③の惑わし(高い山で)に遭いました。それは神の子として、また神のしもべとして、ふさわしい生き方を主体的に選ぶための試みでした。この世の支配者(エペソ6章12節等)はことば巧みに誘惑します。都合の良いようにみことばを操作し利用します。①「神の子なんだから…」②「足が石に打ち当たることのないようにされる」(詩篇91篇11-12節の引用)③「ひれ伏して私を拝むなら(…)全部あなたに差し上げましょう」
  • 申命記のみことばによる打破…それらの試みに対してイエス様は、(奇蹟的・超自然的な力によらず)申命記のみことばによって臨まれ、悪魔を退けられました。①申命記8章3節「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」申命記6章6節「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。」申命記6章13節「あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。」
  • みことばに聴き従う人生…①人類の始祖アダムとエバの食の過ちを最後のアダムとして賠償(=シャローム)し欠乏のない状態に完全に復興し、②イスラエルの民と神の契約書である申命記のみことばを用いることでイスラエルの民の契約違反の失敗を、メシアとして賠償し、③罪に蝕まれた私たちの魂を完全に癒すため、乳香を受けた祭司としてご自身を完全に神に捧げられたイエス様の生き方が現わされています。
  • 結び…私たちのために完全にご自身を父なる神に捧げられた供えのパンなるイエス様の愛を受け、イエス様に倣って新しい一週間を歩まれるよう、祈ります。
Posted on 06/17/2018 at 13:48, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『主イエス様のバプテスマ』(イエス・キリストの生涯 その23)(2018.6.17)

 

こうして、イエスはバプテスマ(ターバル=ヘブル語)を受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしは、これを喜ぶ。」                  (マタイ3章16-17節)

  • はじめに…わたしがバプテスマ(浸礼)を受けたのは1990年5月6日で当時26歳でした。その後1995年1月17日に阪神淡路大震災に遭い献身の思いに導かれたのが30歳のときでした。
  • 素朴な疑問…バプテスマのヨハネが“悔い改めのバプテスマ”を荒野で宣教していた訳ですが、そもそも罪がなく、悔い改めの必要のないイエス様が、【疑問①】なぜバプテスマを受けられたのでしょうか? 【疑問②】また、イエス様がバプテスマを受けられたことが、私たちとどんな関係があるのでしょうか?
  • ヨハネの躊躇…当然、バプテスマのヨハネは、イエス様にバプテスマを授けることに対して躊躇しました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに…」(マタイ3章14節)。そのヨハネに対してイエス様は「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(同15節)と語られました。
  • みこころを行う…「すべての正しいこと」とは、「律法を守り行う」「みこころを行う」ことと言うことができます。ですからイエス様はバプテスマをヨルダン川でヨハネから受けるで、みこころを従順に行ったのです。つまり【疑問①】の答えになります。そのみこころの真意(奥義)は、ヨシュアがヨルダン渡河を通してモーセの権威を完全に引き継いだように、イエス様がヨルダン川でバプテスマを受けることで、福音宣教の主役がヨハネからイエス様に引き継がれることになったのです(ヨシュア記3章参照)。さらに引き継ぐことは、一体となると言うことができます。つまりイエス様は、罪なき方が罪人の私たちと一体になられ、罪を贖い、神の義として下さる出来事の源となられ、私たちとの関係を持っておられるのです(Ⅱコリント5章21節)。【疑問②】の答えです。
  • 結び…天の父なる神のみこころ、すなわち神の愛を百パーセント成就し、今も私たちの内に臨在し、霊・魂・身体を完全に守って下さる主イエス様に感謝します。
アーカイブ ログイン お問い合わせ