Posted on 07/31/2022 at 17:35, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『祝福の贈与』(新約に引用されている旧約 その10)(2022.7.31)

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。(創世記22章18節) / あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です。(使徒の働き3章25節)

◆はじめに…牧師は礼拝の最後に祝祷(祝福の祈り)をします。例に漏れず私も祝祷をしますが、大きな声で“仰ぎ乞い願わくば…”というような、いかにも牧師らしい(?)祈り方はしません。むしろ静かに淡々とイエス様の祝福が流れていくように祈ります。つまり祝祷する私自身に対しての見返りを求めない、取り引きしない、ということです。祝福を所有せず、礼拝を宗教ビジネスにせず、ただ共場を共にする一人ひとりとして臨在の主の中に浸ることを願っています。

◆人身供儀…今日のテキストは、アブラハムがその子イサクを全焼のいけにえとささげる箇所です。いわゆる“人身供儀(じんしんくぎ/ひとみごくう)”です。主なる神様は、アブラハムに純粋な贈与として約束の子イサクを与えたのです。にもかかわらず、試み(試験)とはいえ、一旦、プレゼントとして与えたのを、捧げよ、返せ、というのはあまりにも酷な話と言わざるを得ません。私たちは事の結末を知っているので動揺はしませんが、当事者であったら激しく困惑したことでしょう。このテキストの意味を聖書学者の関根清三氏は「存在の所奪可能性」の自覚を促すことだと語っています。「存在の所奪可能性」を自覚することで、私たちは、かけがえのない者同士、いたわりあって共に生きていこうという思いに目覚めるのだと。

◆足の不自由な者のいやし…使徒ペテロは、創世記22章18節を足のきかない者のいやしの現場で引用しています。時は午後三時の祈りの時間でした。ユダヤ教徒は朝夕二度の祈りを慣習としていました。そしてまさに午後の祈りの際、神殿では“全焼のいけにえ”の子羊がささげられました(民数記28章3-4節参照)。それは「美しの門」の内側での祭儀でした。足の不自由な者は生まれてから後、四〇年間、門の外で施しを受けて生計を立てていました。しかし今や、門の内側に躍り上がって入っていき、心からの賛美をささげる者に造り変えられたのです。お金でもなく、医師の腕でもなく、“ナザレのイエス・キリストの名”とペテロの差し出す腕によってです。

◆結び…私たちは、祝福の贈り物を受けて生かされている尊い存在です。イエス様の御名を身に帯びて、主に近づき、隣人に接する一週間となるよう祈ります。

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