Posted on 06/02/2025 at 18:58, by matsumoto
人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、主はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。(民数記1章1節)
◆はじめに…皆さんは、出生から今までに何回、引っ越しを経験したでしょうか? 私は、ざっくり数えてみると16回、引っ越ししています。ちなみに日本人の生涯における平均引っ越し回数は約3回(国立社会保障・人口問題研究所調べ/2003年)です。
◆引っ越し人生…本主日からしばらく民数記に入りますが、ヘブル語聖書では「荒野にて」が主題になっています。表題を付けるなら「荒野放浪記」といったところ。イスラエルの民は、この荒野の四十年で42カ所に宿営しています(民数記33章参照)。つまり42回、引っ越ししている訳です。やみくもに引っ越ししているのではなく、雲の柱、火の柱の導きに従って旅立ちと宿営を繰り返しました(出エジプト記13章21節参照)。主がイスラエルの民を荒野の中を導かれたのです。
◆荒野の遠回り…エジプトから約束の地まで(直線距離約300㌔)は、最短コースをたどれば徒歩で数週間から1カ月の距離です。それを主は、イスラエルの民に最短コースではなく、果てしなく遠回りをさせ、40年かけてその行程を導かれました。この荒野のプロセスを通してイスラエルの民は、主の御声を聞くことと、主に信頼して歩むことを学びました。目の前には草木が一本も生えていない、水もない、見渡す限りごつごつとした岩とワジ(涸れた川)だけの乾いた大地。明日の生命すらどうなるか分からない、そんな状況の中、イスラエルの民が、創造の主の声に信頼して旅をする勇気を試される場でした。不満、不信、背信続きの荒野の40年間、どんな時も主はイスラエルの民と共に歩み続けられました。もちろんその後も同様です。
◆幼な子…創造の主は、どのようなイスラエルの民であってほしいと思われたのだろうか?と想像してみると、やはり、皆が主の前で幼な子であることを願われたのではないか、そう思います。能力ではなく、ただ主の恵みによって、ありのままのお互いで、主の声に信頼して生きることを願われたのではないでしょうか? なぜなら荒野(ミドバル)とは、神の声(ダーバール)を聞くところ、みことばに信頼するところを意味するからです。またイエス様は、荒野でみことばに信頼し、サタンを退け、ひとり寂しいところ(荒野)で祈られたからです。つまりイエス様は父の前で無力になり、身を委ねられ、父の前で幼な子であり続けたからです。イスラエルの民が荒野で度々宿営しながら約束の地への歩みを進めたことは、イエス様が度々荒野で祈られるルーティンの写しと言えます。
◆結び…主の御声に耳を傾け、信頼し、幼子のように委ねられますように。
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