Posted on 08/24/2025 at 20:29, by matsumoto

『御声を聞いて生きる』(ユダヤ人キリスト者と共に レーエ)(2025.8.24)

見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。(申命記11章26節)

◆はじめに…『人間の五感は、まず聴覚が生まれ、死んでいくとき最期まで残っているのも聴覚だと言われています。人間は世界を、まず聞きながら生まれる。そしてその名残りを耳にしながらこの世界から去っていくのです。聴覚が生まれたとき胎児は外界の音はほとんど聞こえない。聞こえるのは母親の心臓音、血流音、胃腸音、そして母親の声。それはどんな風に聞こえるのか。こもった低音で共鳴する振動のように聞こえる。ボーカロイドの音を水中で聞いてピッチが不安定になって揺らぎの音のように聞こえる』(『高橋源一郎の飛ぶ教室』より)。

◆「見る」は「聞く」こと…今日のテキストは、「見よ」で始まりますが、実は「聞く」ことがテーマです。そもそもユダヤ教は視覚ではなく音(聴覚)の宗教であり、見るのではなく聞く宗教であり、形象ではなく言葉を重視する宗教です。もちろんキリスト教も同様です。主は燃える柴の中からモーセに呼びかけました。『聞く』ことが最も重要なことだと誰よりも良く知っているモーセが、なぜ「見よ」と語っているのでしょうか。旧約聖書で視覚を表す動詞や比喩を用いている場合、実際には全く見られない何か、むしろ聞こえた何かを指していることが多いのです。イザヤが「見た」幻は、叫び声、音、言葉、宣言であり、光景や情景、象徴ではありません。またエレミヤも幻でアーモンドの木を「見て」いますが、重要なのは木を見た目ではなく、その名の音です。ヘブライ語でアーモンドの木を意味する「シャーケード」は「(主が)見守る」という意味です。

◆「祝福」と「のろい」…今日のテキストは「祝福」と「のろい」を見ること、すなわち聞くことを私たちに促しています。そして「ゲリジム山に祝福、エバル山にのろいを置く」(申命記11章29節)と語られています。民に「祝福」か「のろい」かの選び取りと、契約更新の儀式がゲリジム山とエバル山の谷間のシェケムで行なわれました(申命記27章参照)。レビ人の宣言と民のアーメンの声が谷間に響き渡り、母親の心臓音、血流音のように心に共鳴したのではないでしょうか?

◆ゲリジム山とエバル山の谷間で…そのシェケムは以前、アブラハムが召命を受け、礼拝を捧げた地(創世記12章1-7節)であり、後にイエス様が一人のサマリヤ人女性に、ご自身がキリストであることを啓示した地(ヨハネ4章4-42節)です。アブラハムもサマリヤ人女性も、主の御声を聞き、主との語らいによって全く新しいいのちを生き始めたのです。主の御声を聞くことで、私たちも日々、祝福された新しいいのちに生かされるのです。

◆結び…主の祝福の宣言と、決して渇くことのない生ける水を与えてくださるイエス様に委ねて新しい一週間を共に歩んで行けるよう祈ります。

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