Posted on 10/05/2025 at 17:24, by matsumoto

『魂の荒野を潤すいのちの川』(ユダヤ人キリスト者と共に ハアズィヌ)(2025.10.5)

私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。(申命記32章2節)

◆はじめに…昨日は日中、秋雨が降り続きましたが、父の92歳の誕生日を祝うささやかな食事をしました。父の魂を御霊が潤す時となったのであれば感謝です。

◆仮庵の祭りと私たちの渇き…明日6日の日没からユダヤ暦で“スコット(仮庵の祭り)”となります。イスラエルの民が荒野を転々と旅し、その旅先で仮小屋に住まいながらの日々を思い起こし、主の保護と恵みを祝う祭りです。同時に「水への渇望」と「神の臨在への渇き」を象徴しています。仮庵の祭りの最終日には、祭司が水を汲み、祭壇に注ぐ儀式が行われていました。これは、主が雨を与え、命を保ってくださることへの感謝と祈りの象徴でした。その祭りの最終日、イエス様は立ち上がり、叫ばれました。イエス様は、私たちの心が渇いているとき、主はその乾いた地に雨を降らせるように、御言葉と御霊を注いでくださいます。

◆渇いている者は来なさい…「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37–38)。これは偶然の言葉ではありません。仮庵の祭りの水の儀式の最中に、イエス様は「真の水の源」としてご自身を示されたのです。祭壇に注がれる水ではなく、信じる者の内側から湧き出る「生ける水の川」が、真のいのちをもたらすと宣言されたのです。

◆神の言葉は雨のように降る…モーセはこう語りました。「私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる」(申命記32:2)。神の御言葉は、荒野のような人生に降る恵みの雨です。仮庵の祭りが思い起こさせる「荒野の旅路の渇き」に主は、御言葉と御霊をもって応えてくださいます。

◆仮庵の祭りの霊的意味を生きる…仮庵の祭りは、荒野の旅を思い出す時です。私たちも人生の荒野を歩む中で、心の渇きを感じる瞬間があります。孤独、失望、疲れ、空虚感…。それらは、主の水を求めるサインです。この主が気づかせて下さった、私たちの心の奥底にある “渇き”を認めることが大切です。イエス様は「来なさい」(ヨハネ7章37節)と叫ばれました。黙想を通して、祈りを通して、心を開いて主に近づくことが、「来なさい」というイエス様の招きへの応答です。そうすることで御言葉が心に染み込んで来ます。これが“霊的に飲む”こと“聖霊を受ける”ことです。すると「その腹から生ける水の川が流れ出る」(同38節)とイエス様は言われました。私たちが御霊を受けるとき、それは私たち自身を潤すだけでなく、隣人といのちを分かち合う“いのちの川”となります。

◆結び…主の御言葉は雨のように降り、御霊は泉のように湧き出します。その水は、私たちの魂の荒野を潤し、私たちを通していのちの川となって流れ出します。

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