Posted on 10/19/2025 at 20:37, by matsumoto

『光あれ』(ユダヤ人キリスト者と共に ベレシート)(2025.10.19)

わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする(イザヤ42章6節)

◆はじめに…朝の通勤時に、車のフロントガラス越しに陽光が差し込むたびに、あるいは、ふと足元の草の葉についた輝く露を発見した際に、「光あれ」という創造主の発したひと言が想い起こされ、新しい一日を精一杯生きようという力が湧いてきます。

◆光あれ…天地創造の始まりに、主は「光あれ」と言われ、光が存在しました(創世記1:3)。混沌と闇に覆われた世界に、主の言葉によって光が差し込んだ瞬間、それは秩序と命の始まりでした。光は単なる物理的現象ではなく、主の臨在と創造の力の象徴です。闇に対する主の最初の応答が「光」であったことは、主が、混乱や絶望に対して希望と方向性をもたらす方であることを示しています。

◆異邦人の光…イザヤ42章では、主が選ばれた僕を通して、民に光をもたらす約束が語られます。「わたしはあなたを義によって呼び、あなたの手をとって守り、民の契約、国々の光とする」(イザヤ42:6)。この僕は、目の見えない者の目を開き、囚われ人を闇から解放する使命を帯びています。ここでの光は、癒しと解放、そして神の義の現れです。主の僕は、沈黙の中にあっても砕かれた者を見捨てず、柔和にして力強く、闇に住む者に光を届けます。

◆キリストの光…ヨハネ福音書の冒頭では、さらに深い霊的な意味での光が語られます。「ことばは神とともにあった。ことばは神であった…ことばのうちに命があった。そしてその命は人の光であった」(ヨハネ1:1–4)。ここでの「ことば」はキリストを指し、彼のうちにある命が人々の光となります。「この光は闇の中に輝き、闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)。キリストの光は、罪と死の闇に対する勝利であり、永遠の命への導きです。

◆世の光…三つの聖書箇所に共通するのは、光が主の創造、救い、そして啓示の中心だということです。主の光は、混沌を秩序に、絶望を希望に、死を命に変える力です。そして、私たちの内で輝くよう、魂の扉を開くよう招いています。私たちが主の光を受け入れるとき、「世の光」となります(マタイ5:14)。この光は、ただ見るものではなく、歩むべき道であり、分かち合うべき恵みです。主の光に照らされて歩むとき、私たちは創造の目的に生き、癒しと希望をもたらす器となります。私たちは「光の子」として、神の栄光を映す者として生かされています。

◆結び…イエス様ご自身が光として私たちの歩むべき道を照らしてくださり、闇に迷うことなく希望のうちに、恵みを分かち合って生きる真新しい創造の一瞬一瞬を、歩める幸いを感謝します。

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