Posted on 11/09/2025 at 17:49, by matsumoto

『弱さの中に宿るいのち』(ユダヤ人キリスト者と共に ヴァエラ)(2025.11.9)

彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」(②列王記4章7節)《関連聖句》創世記18:1-22:24/ルカ17:26-37/ロマ書9:6-9/ガラテヤ書4:21-31/ヘブル書6:13-20,11:13-19/ヤコブ書2:12-24/②ペテロ2:4-10

◆はじめに…毎朝、黙想で「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀歌3章22-23a節)の御言葉を告白し、胸に刻み込んで重心者ケアの現場に出かけています。

◆人間の限界を超える主の約束…創世記18章から22章にかけての、アブラハムとサラの物語は、「子ども」という存在が主の約束の中心にあることを示しています。年老いた二人に与えられたイサクは、主の奇跡と忠実さの象徴であり、弱さの中にこそ神の力が現れることを教えてくれます。サラの笑いは不信から喜びへと変わり、子どもは主の祝福の器となります。

◆経済的救済と生命の回復…今日のテキストとして取り上げた②列王記4章では、子どもたちが奴隷として連れ去られてしまう危機に瀕する中、貧しいやもめは母親として必死の叫びで預言者エリシャに助けを求めました。その叫びにエリシャは油の奇跡によって彼らを救いました。それに続くシュネムの女の、子どもが死からよみがえる場面では、母の信仰と預言者の祈りが生命を回復させます。いずれも、子どもは神の憐れみと力の現れの器となっています。

◆子どもは主の生命の約束…新約聖書のヘブル書11章では、アブラハムがイサクを捧げようとした信仰が称えられていますが、そこには「神は死者の中からでも甦らせることができる」との確信がありました。子どもは単なる未来の担い手ではなく、主の生命の約束、祝福の器そのものなのです。その子どもを守ることは、信仰の具体的な実践です。私たちの社会において、子どもや弱者はしばしば後回しにされがちです。しかし聖書は一貫して、主ご自身、子どもを特別に顧み、彼らを通して栄光を現されることを語っています。私たちはその視点を取り戻し、弱さの中に宿る主のいのちに目を向けようと願います。子どもを大切にすることは、日々近づきつつある神の国を迎える準備そのものなのです。

◆子どもを中心に据えたイエス様…イエス様は、子どもを人々の真ん中に立たせ、抱き上げ、祝福されました(マルコ9章36-37節、10章13-16節)。イエス様の子どもに対する直接的で体を張った憐れみと愛情は、②列王記4章の貧しいやもめとシュネムの女の、子どもに対する愛情と同様です。

◆結び…弱さに宿る主のいのちに目を向け、イエス様の愛にならい社会的に弱い者(特に子ども)を顧み、共に神の国を迎える備えを為したいと願います。

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