Posted on 02/22/2026 at 17:27, by matsumoto
人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。(ヘブル書8章2節)《関連聖句》出エジプト記25:1–27:19(幕屋の建設命令)/①列王記5:12–6:13(ソロモン神殿の建設)/ヘブル書8:1–6、9:23–24(天にある真の幕屋)
◆はじめに…聖書全体を貫く驚くべき真理は、「聖なる神が、罪ある人間のただ中に住もうとされた」ということです。出エジプトの荒野で示された幕屋の細かな設計図(出エジプト25章)は、人間の宗教心の産物ではなく、主ご自身の熱意によるものでした。主は、遠くから眺める存在ではなく、民の旅路に同行する方であることを選ばれたのです。
◆型としての幕屋と神殿…移動式の「幕屋」は荒野のただ中に、ソロモンの「神殿」は定着したイスラエルの地に置かれました。これらは当時の人々にとって主の臨在の確かな「しるし」でした。しかし、神殿建設の際、主は「わたしの掟に歩むなら、わたしはあなたの中に住む」(列王記上6:12-13)と語られました。豪華な建物そのものが重要なのではなく、主との契約関係、すなわち「主の御言葉への従順」こそが、神の住まいの本質だったのです。
◆天の本体と真の実体…ヘブル書は、地上の幕屋や神殿は「天にあるものの写し(影)」に過ぎないと宣言します(ヘブル9:23)。これらは「モデルルーム」のようなものであり、その本体(実体)こそがイエス・キリストです。イエス様は、手で造られた聖所ではなく、天の本物の聖所へと入られました。幕屋の構造が示していた「神との隔たり」を、イエス様はご自身の命という一度限りの献げ物によって取り払われたのです。
◆私たちの内に立てられる聖所…私たちは立派な建物(教会堂)を必要としません。イエス様を信じる者の群れ、そして私たちの心こそが「聖霊の宮」です。幕屋が移動し、神殿が定着したように、人生のどんな局面(試練の時も平安の時も)においても、主は私たちのただ中に住まわれます。儀式や形式という「影」に留まらず、本体であるイエス様を見上げ、日々の歩みの中で主の御声に従うとき、私たちの日常が「神の住まい」となります。
◆結び…幕屋から神殿、そしてキリストへ。「神の住まい」は、イエス様において完成しました。私たちは今、どこにいても、イエス様を通して大胆に神の臨在の中を歩むことができるのです。今日、この瞬間、私たちの心の聖所にインマヌエルの主をお迎えできる恵みに感謝します。
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