Posted on 06/15/2025 at 19:36, by matsumoto

『メノラーと信仰の学び』(ユダヤ人キリスト者と共に ベ=ハアロテハ)(2025.6.15)

「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」(民数記8章2節)

◆はじめに…昨日の土曜日、父の通院同行をしてきました。父の訴えは、コーヒーを飲むと、胃の手前付近の食道で詰まってしまうというものです。診察室に父と一緒に入って、以前カメラを飲んで撮影した写真をパソコンで見ながら医師が言うには「食道が一般よりも捻じれているが、物理的に食べ物が詰まるような状態は見られない」ということで、「今処方している漢方薬を続けて、不快感が2割でも3割でも緩和したら良しというぐらいですね」とのこと。物が詰まっていないのに詰まっていると認識してしまう訳ですから、体内の感覚センサーが誤作動しているのかも知れません。体内のメカニズムは本当に繊細です。年齢を重ねるということは、身体の不具合と折り合いをつけて(メンテナンスをして)生きる知恵を学ぶことと言えるのではないかと思います。

◆メノラーの奉仕が示す神の寛容と委託…先主日は民衆の要求に屈し、金の子牛像を造り、偶像礼拝に加担するという痛恨の失敗をした(出エジプト記32章1-6節参照)にもかかわらず、主はその失敗したアロンとその子孫に「イスラエル人を祝福せよ」(民数記6章23節)と、祝福を祈る役割を託されたことを学びました。それに続き本主日は、そのアロンに主がモーセを介して聖所におけるメノラーのともし火を灯す奉仕を指示する箇所から、みことばを学びます。今までにメノラーについては何度も学んでいますが、何度学んでもみことばの奥義が次から次に光のように輝き現れるのがメノラーの学びのようです。

◆七つのともしび皿に見る「平等」と「信仰の焦点」…今日のテキスト民数記8章2節に七つのともしび皿が出てきます。それらは、すべて同じ高さになるようにメノラーは作られています。意味するところは高低差、上下関係や優劣はなく、すべての存在、いのちは主の前に“平等”だということです。また、幹から両脇に伸びる6枝の上のともしび皿は、中央の幹の上のともしび皿の方を向いて整えられます。中央のともしびは一日中、消えることはありませんでした。つまり、永遠なるいのちの光、主イエス様の方を向いているということになります。まさしくヘブル書12章2節「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」のみことばの現れです。メノラーのともしびをメンテナンスする奉仕をアロンは託され、その奉仕をすることで日々、主から生きる知恵を学んでいたことと思います。

◆結び…それぞれ具体的な悩みを抱えながらの日々の働きと信仰の歩みを、主イエス様が、私たち自身の生きる知恵を育む機会としてくださるよう祈ります。

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