Posted on 11/23/2025 at 22:14, by matsumoto
「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。──主の御告げ──わたしはヤコブを愛した。(マラキ1章2節)《関連聖句》創世記25:19-28:9/ローマ9:6-16/ヘブル11:20,12:14-17
◆はじめに…親子関係は、私たちの人生の根幹です。聖書では、父イサクが長男エサウを、母リベカが弟ヤコブを愛したという、親の愛の偏(かたよ)りが記されています(創世記25:28)。この人間の愛の限界を通して、私たちは主の真実の愛に目を向けたいと思います。
◆母リベカの「選びの愛」…リベカがヤコブを愛したのは、「兄が弟に仕える」という主の預言に基づいたからです(創世記25:23)。これは、ヤコブの性格ではなく、主の約束に応答する信仰の愛でした。時にはイサクを欺いてでも(創世記27:13)、主の計画を実現させようとした彼女の姿には、犠牲を伴う深い愛が見られます。
◆父イサクの「無条件の愛」…一方、イサクは、長子の権利を軽んじる衝動的なエサウの欠点を知りながらも、彼を愛しました。これは主の計画とは別に、「自分の子だから愛する」という、深く人間的で、主の父性をも映し出す無条件の愛です。
◆神の「選びと憐れみの愛」…この両親の愛のかたちは、主の愛の深さを映し出す鏡でもあります。マラキ書では、神がイスラエルに向かって「わたしはあなたたちを愛した」と宣言されます(マラキ1:2)。ローマ書では、ヤコブとエサウの物語を引用し、主の選びが人間の行いによらず、神の主権と憐れみによるものであることが語られます(ローマ9:11-16)。主は、私たちが「ふさわしくない」時にこそ、最も豊かに愛を注がれる方です。イエス様の十字架は、その究極の証です。私たちの努力や資格ではなく、神の憐れみによって、私たちは選ばれ、愛されているのです。これは私たちに対する主の圧倒的な恵みの宣言です。
◆祝福への応答…この無条件の愛に応え、私たちは「すべての人との平和を求め、また、聖なる生活を求めなさい」(ヘブル12:14)と招かれています。ヤコブが祝福を求めて主と格闘したように、私たちも信仰をもって、主が用意された祝福(霊的な成長、深い平安、永遠の命)を受け継ぐ者として召されています。
◆結び…母リベカの犠牲の愛、父イサクの無条件の愛、そして主の真実の愛。そのすべては、イエス様の十字架と復活によって差し出されています。私たちは、主に愛され、選ばれ、祝福のために召されています。この愛に応えて聖さと平和を追い求める人生を歩むとき、主は祝福と豊かな将来へと導いてくださいます。
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