Posted on 02/07/2026 at 20:44, by matsumoto

『聖なる臨在に触れる』(ユダヤ人キリスト者と共に イテロ)2026.2.8

金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい(ルカ18章25節)《関連聖句》出エジプト記 18:1-20:23/イザヤ6:1-13/ルカ福音書 18:18-30

◆はじめに…私たちは今、生きておられる主の「聖なる臨在」に触れるために礼拝に招かれます。招きに応える時、私たちはどのように新しくなるでしょうか。

◆「聖さ」の前に立ち、清められる…預言者イザヤは、セラフィムの「聖なる、聖なる、聖なる」という叫びの中で、自身の「汚れ」を痛感し、「災いだ、わたしは滅びる」と絶望します。主の臨在は、私たちの自己満足や「自分は正しい」という思い込みを砕きます。しかし、主は絶望で終わらせません。燃え盛る炭で唇を触れ、罪を赦されました。私たちが「ありのままの自分」で主の前に立つとき、主は私たちを清め、新しくしてくださいます。

◆神の「秩序」を受け入れ、生活が整えられる…主の臨在は、内面を清めるだけでなく、私たちの「生活の秩序」を整えます。モーセはイテロの助言により「共に担う」共同体へと整えられました。主は私たちが孤立して燃え尽きることを望まず、共同体の中での調和を求められます。シナイ山で与えられた十戒は、私たちを縛る鎖ではなく、神の民として自由に、豊かに生きるための「愛のガイドライン」です。主の御言葉は、私たちの家庭、職場、人間関係の混沌に健全な境界線を引き、主を中心とした新しい秩序をもたらします。

◆「執着」から解放され、主に従う…金持ちの役人は、宗教的な形式(律法)は守っていましたが、心は「富」に支配されていました。イエス様は「持ち物を売り、貧しい者に施せ」と言われました。それは彼を縛っている執着から「解放」するためでした。自分の力で救われようとする者は悲しみと共に立ち去る他ありませんが、「人間にはできないことも、神にはできる」という約束が私たちには与えられています。私たちが握りしめている執着(プライド、不安、成功への固執)を主の足元に置くとき、私たちは真の自由へと足を踏み出すことができます。

◆応答としての歩み…イザヤは「汚れ」を、モーセは「重荷」を、役人は「富」を持って主の前に立ちました。主はそれらを、ご自身の光の中にさらけ出すよう招いておられます。独りよがりの歩みを捨て、主の秩序の中に身を置くことで生活が整えられます。自分の正しさを捨て、主の赦しの中に生きることで霊が清められます。そして執着を捨て、主を第一とする自由によって心が解放されます。

◆結び…「わたしに従いなさい」と、主は語られます。この招きに「ここにおります。私を遣わしてください」と、心からの応答を主に捧げたいと願います。

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