Posted on 06/01/2019 at 21:00, by matsumoto

令和に生きる者として

わたしがあなたに与える命は平/あなたを支配するものは恵みの業。(イザヤ書60章17節/新共同訳)

令和の時代が、創造主との平和、隣人との平和、自然との平和を造る時代となることを心より祈ります。

以下、学者(カオス学の先駆け)であり、信仰者(コスモスの希求者)であった富田和久氏の言葉

我らの平和(『富田和久著作集第四巻』p293-294より抜粋)

 (…)私どもがこういうことを申しますと、心無しの皮肉屋がおりまして、「過去の戦争中、兵役拒否もできなかった人間が、今、平和を主張して何になるか」――そういう声を浴びせる者があります。
 平和を求めるということに資格が必要であるのかどうか、私は知りません。すでに申しましたように、私自身は戦争の子でありまして、十五年戦争の戦禍を経験し、その中から、剣を逃れて残された者であります。それはそのおとりですが、他でもない、終戦時に経験した身の置き所のない思いと悔恨によりまして、まさしくそのことによって、神との間に真の平和を得たのであります。この体験を私から奪うものはありません。ですから恵みによって残された残る生涯をもって、私が諸君に伝えることのできるものは、この内面的経験を除いてはないのであります。私の生命は、戦時中に失われていても不思議ではなかったものでありまして、今後どうなってもよいと思う。しかし、神との間に平和を得た、この体験だけは、いかにしても諸君に伝えたいと願うのであります。
 同様のことは、問題を国家の段階に移して、私たちの祖国日本の立場に立っても言えるのではないではないだろうか。誰しも祖国の盛隆を祈らぬ者はありません。しかし世界の歴史をひもとくならば、無限に生き延びた国というものがありますか。国家の寿命は個人の生涯に比べれば、長いものではありますが、所詮限りがあるのではないか。歴史の舞台から去っていくものではないか。もしそういうことであるならば、国の利益であるとか、国の防衛であるとか、そういうことを至上のことと考えて、国際社会の孤児となるのではなく、歴史上初めて核爆弾を経験した民族として、国の命運をかけて非武装と平和の原理を世界に宣べ伝えることこそ、日本でなくては果しえない民族的使命ではないか。これが今日も変わらず生きているところの矢内原忠雄の精神であります。聖書に照らされ、神の前に立つことを知った民族の使命であると思うのであります。
 本日、ここにお集まりの皆さんも、諸君自らの生涯と、日本国の存在を賭けて、あるいはこれを投じて、今日の状況のものとにおいて、いかなる使命を果たすべきか、静かに考えていただきたいと思うのであります。(矢内原忠雄20周年記念講演 一九八一年 京都会館。『おとずれ』70号 一九八二年一月)

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