Posted on 09/11/2022 at 19:17, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『神の愛の経済』(新約に引用されている旧約 その16)(2022.9.11)

しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。(出エジプト16章18節) /「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。(コリント人への手紙第二8章15節)

◆はじめに…9月10日は“中秋の名月”ということで、今日の真夜中に空を見上げてみましたが、あいにく雲がかかっていて満月を見ることはできませんでした。エルサレムはどうかと思い、ライブカメラを観てみましたが、残念ながら、こちらも曇り空のため満月は見ることはできませんでした。しかし雲の向こう側には確かに真ん丸のオレンジ色に輝くお月様が浮かんでいることは確かです。お隣の韓国では“秋夕(チュソク、추석)”で賑わっているのでしょう。中秋の名月の次の満月が来ると、いよいよ“仮庵の祭り”です。

◆マナ…本日のテキストは、出エジプト記は「マナ」について、そして②コリント人への手紙は旧約を引用して「献金」の取り扱いについてパウロが意見を述べる箇所です。私(たち)は、多く集める=欲張り、少なく(しか)集められなかった=貧困というように考えがちです。しかし、マナも主の賜物(贈り物)であり、そのマナを集めるための健康、能力、勤勉さも主からの賜物(タラント)です。私たちの周囲は、自分自身も含めて、すべて主の賜物で満ちているのです。そして自然と分かち合いの気持ちが湧き出るように創造されているのです。そして賜物を受ければ喜びが溢れるように創造されているのです。その現実を味わいなさいというのが、主が私たちに託された喜ばしい課題なのです。それは善悪の知識の木に躓いた人間に対する“一本の木”(柳=ぎょうりゅう)の出来事です。

◆いのちのパン…さらにその出来事は主イエス様へと引き継がれました(ヨハネ6章35節)。天からのまことのパンであるイエス様は、モーセを通して与えられたパン(マナ)を遥かに超える、決して飢えることのない、“いのちのパン”です。もちろん、お月見団子やソンピョン(松餅=송편)も美味しいでしょうけれども比較になりません。主イエス様は、いのちのパンとして、私たち罪人を死から解放するために一本の木、すなわち十字架に釘付けになられたのです。

◆結び…そしてその朽ちないいのちを与えるのは御霊です(ヨハネ6章63節)。ペンテコステの出来事のように、御霊が分かち合われるところに、まことの神の愛の経済(交流)があります。神の愛の経済には、好景気も不景気もなく、絶えず満ち足りた恵み、まことの秋夕(チュソク、추석)があります。

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