Posted on 07/01/2023 at 20:27, by matsumoto
地とそれに満ちているもの、世界とその中に住む(障がいがあっても、老いても“良い”とされた=筆者補足)者は主のものである。(詩篇24篇1節) /地とそれに満ちているものは、主のものだからです。(①コリント人への手紙10章26節)
◆はじめに…先々週、先週と大きな出来事がありました。ひとつは、入浴介助で利用者さんを抱えた際、腰を痛め、立ち上がりが困難になり、病院受診のため一日、仕事を休んだこと。もう一つは、眞津代牧師が歯の治療のため約2カ月の予定で春日井へ帰省し、その間、私自身、単身赴任状態になったことです。腰の方は早目の病院受診で悪化は免れ、単身赴任状態の間は、自己の健康維持・メンタル管理が喫緊の課題です。羊飼いなる主イエス様に朝夕祈る毎日です。
◆すべての創造者なる主…先主日は詩篇23篇「主は私の羊飼い」が主題でしたが、今回の詩篇24篇は「すべての創造者なる主」が主題です。壱岐の島では主の創造の壮大さ、偉大さを実感させられる所が島中にあります。今回アップした写真のように、詩篇24篇2節「まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川(潮流)の上に、それを築き上げられた」とのみことばを実感させられる場所も、各所にあります。主の創造の御業の源は“愛”です。そして創造したすべてのものを“良い(=憐れまれた)”とされました。愛と憐れみの主です。
◆永遠の門、戸よ。上がれ…使徒パウロは、この詩篇24篇1節のみことばを引用しています。それをキリスト者の「自由と愛」の文脈の中に置いています。そして、すべての真の所有者は主であり、主の御心(栄光)に基づいて行動の価値判断をするよう、勧めています。私たちは誰の意志(声)を大切にし、具体的行動に移すのかが、問われます(創世記参照)。私たちには主の御声に聞き従う“自由”があり、利己ではなく利他、すなわち“愛”を基準にして行動する責任応答性が求められています。自らの知識に依り頼むのではなく、聖霊による感動が“自由と愛”の確かな霊的判断基準になります。困難、試練はあります。しかし、乗り越えられない試練はなく、それに耐えうる力、知恵、脱出の道(主に近づく道)が必ず与えられます。今、エルサレムの東側にある黄金門(美しの門)は分厚い壁で塞がれています。私たち自身の霊(心)の門はどうでしょうか? イエス様が私たちの戸の外に立って「戸(門)を開けて」と御声を掛け、ノックしておられます。
◆結び…私たちが固く閉ざしている戸(門)をイエス様の御声を聞いて開くとき、イエス様の“自由と愛”が私たちの心の中に止めどなく流れ込んで来ることを信じます。それは創造主が私たち一人ひとりに持っておられるイメージ(似姿)です。
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