Posted on 08/31/2024 at 10:15, by matsumoto
ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ5章2節) /『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』(マタイ2章6節)
◆はじめに…先週主日は夏休みをいただき、筑紫野南キリスト教会の礼拝に参加させていただきました。私の神学校入学の推薦状を書いてくださった原田寛牧師と神学校の新約学講師だった瀬戸毅義先生との再会は、二十数年来のブランクがあるにもかかわらず、主が瞬時に恵みの橋を架けてくださり、感謝でした。
◆預言は他人事? 自分事?…さて今日のテキストはミカ書5章2節とその引用をしているマタイ福音書2章6節です。約7百年の歳月を超越してイエス様の到来を預言したメシヤ預言です。ただイエス様誕生当時の「ユダヤ人」の祭司長や律法学者たちは、このミカの預言を巻物に記された文字としては知っていたけれども、主の生きたみことばとしては信頼していませんでした。他人事であり、無関心でした。一方、「異邦人」の東方の占星術師(天文学者)の博士たちはいつも夜空を見上げ、星に関心を示し、王の誕生を告げる星を観察し、王を拝するために遠路はるばるエルサレムまで旅をしました。選民のユダヤ人宗教指導者にはメシヤ預言が他人事であり、異邦人の天文学者にとっては自分事だったことは、皮肉な現実です。
◆預言の成就としてのイエス様…同様のことが今に生きる私たちキリスト者(教会)にもないでしょうか? 聖書に記された文字を知識としては知っていて伝道しても、生きたみことば、救い主イエス様ご自身として信頼しきれていないということはないでしょうか? イエス様を自分の人生の主、王として内に迎え入れていないということはないでしょうか?
◆見過ごさない支配者なる主…救い主イエス様がお生まれになった地“ベツレヘム”。その名の意味は“パンの家”。そして「いと小さき者」と呼ばれた町で、人々の関心の外に置かれ見過ごされていました。しかし、人々は見過ごしても、主は関心を向け続けておらました。主のまなざしは絶えずこの「いと小さき者」に注がれています。2千年前、ご自身を裂き与えるいのちのパンであるイエス様が来てくださいました。それは私たちの日常生活の無関心(=私たちのベツレヘム)を愛で満たすために救い主が来られたこと意味しています。
◆結び…私たちは「いと小さき者」の声に耳を傾け、いのちを分かち合う新たなベツレヘム(パンの家)へと招かれています。
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