Posted on 11/10/2024 at 21:15, by matsumoto
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22章12節)
◆はじめに…今月11月は『児童虐待防止推進月間』です。すべての子どもは改正児童福祉法において①生きる権利②育つ権利③守られる権利④参加する権利が保障されています。しかし年間70人を超える子どもたちが虐待によって死亡しています。5日に1人のこどもが虐待によっていのちを落としていることになります。子どもは親や大人、社会の所有物ではありません。今日は、アブラハムの“イサク奉献”の記事から、主が、人間の作り出した世界の状況がどのようなものであっても、子ども(私たちも含め)を丸ごと愛で包み、神の国に招き入れて下さっていることを、共に覚えたいと願っています。
◆主の約束…アブラハムとサラは何年も子どもを待ちました。主が、「空の星、地の塵、海岸の砂粒のように多くの子孫が生まれる」(創世記13章16節、15章5節他)と繰り返し約束しました。子どもは生まれませんでした。サラはもう年老い、更年期を迎え、自然に子どもを産むことは不可能でした。サラは嘲笑しました(創世記18章12節)。しかし主は約束どおり、子どもイサク(=笑う)を与えられました(創世記21章1-3節)。
◆イサクをささげよ…ところが主は、「イサクをわたしにささげなさい」(創世記22章2節)と語られます。古代世界では、子供は両親の法的所有物と見なされていました。子どもには何の権利もなく、父親は子どもに対して何でも好きなことをすることができ、殺すこともできました。これが異教世界に広まっていた子どもの犠牲の習慣全体の根底にありました。それと同じようにイサクを犠牲にするように主はアブラハムに求めているのでしょうか? そうではなく、真逆です。子どもを親の自由に扱うな、子の所有権は私(主)にある、その意味で主は、「イサクをわたしにささげなさい(返しなさい)」と語られたのです。
◆主の備え…それで主はアブラハムに、代償(贖い)の羊を備えられました。そしてイサクの誕生と成長のすべてを与えて下さった主に、感謝と祝福の礼拝をささげた出来事が“イサク奉献”です。私たち一人ひとりも同様です。神の国に属する子どもとして、この世のすべての人間的支配から私たちを救い出して下さり、私たちが私たちらしく自由に、喜びをもって笑いながら今日を大切に生きられるよう、イエス様を備えて下さったのです。
◆結び…イエス様を私たちのために備えて下さった天地創造の主に栄光をお返しします。
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