Posted on 03/06/2016 at 05:15, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『わたしはぶどうの木 聖地巡礼旅行(その7)』(ヨベルの年 第26週)(2016.3.6)

写真=イエス様と弟子たちがゲツセマネへ向けて歩かれた石段

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ福音書15章5節)

    • はじめに…先主日は、二階の大広間(マルコ福音書を記したマルコの実家)で過越しの食事の準備をしたところから、みことばを学びました。その後、イエス様と12弟子(途中でイスカリオテのユダは退座)は過越しの食事(=最後の晩餐)をしました。今日の聖書のテキストは、最後の晩餐の後、イエス様一行が、ゲツセマネの園へ向かう途中でのメッセージです。
    • ゼツセマネの園に向けて…二階の大広間からゲツセマネの園までの距離は、約1・5キロ弱です。草木も眠る丑三つ時、満月の月明かりの下、城壁沿いにイエス様と弟子たちはゲツセマネに向けて歩いたのでしょう。そこには、ぶどう畑があったと思われます。
    • わたし(主)はまことのぶどうの木…そこでイエスは口を開き、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」(ヨハネ福音書15章1節)と語り出されたのです。イエス様はへブル語か、あるいはアラム語で語られたでしょうから「アノーキー・ハゲペン・ハアマティト・ヴェアービ・フー・ハコレム」と言うような感じで語られたでしょう。きっと弟子たちが見たぶどうの木は、季節からして、地に這うようして枯れているような姿のぶどうの木だったでしょう。“まこと”は真実、誠実、確実、真理の意です(エレミヤ2章21節参照)
  • 父は農夫…農夫は収穫のために愛を注ぎ、労します。農夫は、ギリシア語で「ゲオールゴス」で、ゲー(地)+エルゴン(行い、業)です。父なる神は、天地の造り主であり、地に平和をもたらす方です(イザヤ2章4節参照)
  • あなたがたは枝…そして弟子たちと同様、わたしたちもまた、まことのぶどうの木につながる枝です(ヨハネ福音書15章5節)。この枝が豊かに実を結ぶように、農夫なる神様は手入れをして下さいます。ゆえにイエス様はわたしたちに“とどまりなさい”と語られます。
  • 結び…新しい一日一日、皆さんが主につながり、みこころが地でも行われますように。

You can follow any follow up comments to this entry through the RSS 2.0 feed.

Comments are closed.

アーカイブ ログイン お問い合わせ