Archive for 4月, 2018
Posted on 04/29/2018 at 21:14, by matsumoto
彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
(マタイによる福音書2章13節)
- はじめに…「ユダヤ人の王」の誕生を示す星を目当てに、遥かペルシヤよりやって来た博士たち。そしてついにベツレヘムにおられるイエス様に会い、そして礼拝しました。彼らは異邦人として、最初にイエス様を礼拝した人となりました。父なる神は、すべての人がイエス様によって生きる者となるよう、計画しておられます。
- ヘロデ王…ヘロデは、王になるためにユダヤ教に改宗しました。ヘロデは自分の考えを実現するためには手段を選びませんでした。親族を殺し、2歳以下の男子の初子までも殺すよう、命令したのです(マタイ2章16節参照)。自分の権威を振るい、自己中心に生きてきたヘロデの心中は、常に不安と孤独が渦巻き、暗闇に覆われていたことの証しです。暗闇は、安心や喜びへの道しるべをかき消してしまうのです。
- 主のことばに導かれて…夢に現れた御使いのことばに従い、エジプトへ逃れたイエス様と両親。その後、ヘロデ王の死を知らせる御使いのことばによりナザレへ(マタイ2章13-15節)。これはすべて父なる神のご計画であり、「いのちを得るため、生きる者となるため」の道しるべでした(同23節)。イエス様は、すべての人の救い主であることを成就するために降誕されましたが、その歩みは常に困難なものでした。
- 結び…困難を体験されたからこそ、私たちの困難を分かって下さいます。そしてイエスご自身が私たちの人生の“道しるべ”となって下さいます。元気を失い、疲れ果ててしまわないように、イエス様を見ます(ヘブル12章2-3節)。
Posted on 04/22/2018 at 19:38, by matsumoto
そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。(マタイによる福音書2章11節)
- はじめに…イエス様誕生後40日が過ぎて、マリヤとヨセフは、シメオンとアンナという二人の預言者に出会います。そしてこの二人によって幼な子イエス様が、待ち望んでいたメシアであるということを証明されたのです。今日は、それからおよそ2年後の出来事です。
- 東方の博士たち…イエス様がベツレヘムでお生まれになったのは、ヘロデ王(在位BC37年~4年)の時代でした。その王のもとに“ユダヤの王”を拝みに東方より博士たちが来たのです。東方とは、ペルシヤ(イラン)であり、彼らは占星術師であり賢人だったようです。BC607年頃、バビロンに連れて行かれたダニエルは『七十週の預言』をしました(ダニエル書9章24-27節)。それは1日を1年と数え、490年後にメシアが到来するというものでした。ですからヘロデ王の時代の人々は、メシア到来の時期が近いのでは…と話し合っていました。さらに占星術師は、メシア誕生と星の関連を見ていたのでしょう(民数記24章17節)。不思議な星を見た博士たちは、その星を追いかけ出発したのです。ペルシヤからエルサレム。それは東から西への移動でした。エルサレム到着後、再び星が現れ、ベツレヘムへ、北から南への移動です。天体の星が、このような動きをするでしょうか? その星はまさに“主の光”だったのです。そして博士たちは、その星を頼りに従いました。ベツレヘムにいる幼な子イエス様と出会った博士たちは、イエス様を拝んだ、つまり礼拝したのです。異国の人(異邦人)による初めての礼拝となりました。
- 黄金、乳香、没薬…ペルシヤからベツレヘムまでの長い道のりと時間、その旅のための準備、そして贈り物。彼らがどのような思いで選んだのかは分かりませんが、旧約聖書では大きな意味があります。黄金は王としての身分を表わし、乳香は神性、そして没薬は死を象徴しています。つまり、イエス様は王であり、神であり、贖いの死を遂げるメシアであることを意味します。そして、この贈り物は、後にイエス様家族がエジプトへ逃れるための資金となり、大いに役立ったのです。
- 結び…救い主イエス様の到来は、古から預言者たちによって語られてきました。ついにその時は来ました。私たちは、将来の計画を持っておられる主の光を頼りに歩むなら、どんな困難な旅路でも歩くことができるでしょう。
Posted on 04/21/2018 at 20:04, by matsumoto
エルサレムにシメオンという人がいた。イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。シメオンは神をほめたたえて言った(…)「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」また、女預言者のアンナという人がいた。(…)彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。(ルカによる福音書2章25-38節)
- はじめに…今年は桜の花見を満喫しました。桜にもいろいろな種類があるそうですが、その中でも“ソメイヨシノ”が有名です。全国に百万本植えられているそうですが、その原木となった桜は東大の植物園の入り口付近にあり、今もきれいな花を咲かせています。日本人にとって桜は希望を感じる存在です。「春が来れば、またきれいな花が咲く」と、春を待ち望みながら希望を持って冬を過ごします。それは私たちの人生と重なります。「ときが来れば必ず…」と望みを抱くことができるのは何と幸いなことでしょう。
- 主のことばを体験した人(イザヤ9章6節)…イエスと命名された幼な子を連れて宮に入ったマリヤとヨセフ。そこでイスラエルの慰めとエルサレムの贖いを待ち望んでいた預言者シメオンとアンナに出会いました。この二人を通してイエス様が救い主(キリスト・メシア)であることが証明されました。イザヤ9章6節、同42章6節には「異邦人の救いとイスラエルの民の救いのためにひとりの男の子が生まれる」と預言されています。シメオンとアンナは、長い間、このことばを伝え聞いて、ついに待ち望んで来た救い主に会ったのです。
- 幸いな人(ルカ1章45節)…飼い葉桶に寝ている赤ちゃんイエス様を見た羊飼いもまた、ガブリエルによって語られた主のことばの実現を体験し、神を礼拝する者に変えられました。バプテスマのヨハネの両親エリサベツとザカリヤもそうです。エリサベツは「主が語られたことが必ず実現すると信じた人は何と幸いなことでしょう」と神を賛美しました。イザヤやシメオン、アンナはキリストが来られることを待ち望み、それは実現しました。今、私たちはキリストの再臨を待ち望む者です。日々の生活を送りながら、しかし必ず再臨されるキリストを待ち望むという生活は私たちの人生に大きな力と勇気を与えてくれます。そして主は、そのような私たちを幸いな者に造り変えて下さいます。
- 結び…「あなたを見捨てない、あなたを愛する」と言われる主は、様々な人を通して語られ、その愛を実現させて下さいます。一人ひとりに対しての主の祝福の計画も、時が来れば実現します。主に信頼して待ち望みます。
Posted on 04/08/2018 at 09:28, by matsumoto
八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。◆さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。(ルカによる福音書2章21-22節)
- はじめに…先週の4日(水)、キング牧師が銃弾に倒れ50年。人種差別撤廃を訴え、公民権運動をリードしました。「I have a Dream.私には夢がある。黒人と白人の少年少女が手をつなぎ(…)」その活動の最中、1968年4月4日午後6時01分、39歳で彼のいのちは断たれました。彼のメッセージはまさに「すべての民族を祝福」と主がアブラハムに語られた約束そのものだったのではないでしょうか。
- 律法のなかで生きる(レビ12章1-8節)…マリヤからお生まれになった幼な子は、8日目に割礼を授けられ「イエス」と命名されました。マリヤは律法に従って産後40日の間、家にこもらなければなりませんでした(レビ12章2、4節)。そのきよめの期間の後、エルサレムに上り、祭司にいけにえ(ささげもの)携えていきました。つまりマリヤもヨセフも、そしてイエス様もユダヤ人として生きている、ということです。ささげものは“山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽”。これは子羊を準備できない貧しい人のためのものです。
- 主の愛のなかで生きる(ピリピ2章6-8節)…父ヨセフは、石工でしたからイエス様も長男としてその仕事をしていました。石を削り、運んで、その手はどんな手だったでしょう。このマリヤとヨセフ、つまり貧しい家庭を選ばれたのは主ご自身です。神のあり方を捨て、ご自分を無にして仕える者の姿をとられたイエス様の生涯は、そんな底辺から始まったのです。それは神の愛の証しです。人間を愛の対象として造られた主は、「すべての民族を祝福する」とアブラハムに約束され、「ひとりも滅びないで永遠のいのちを持つため」に御子イエス様を与えて下さったのです。
- 結び…主の愛を受けるために私たちは生かされています。肌の色や人種、民族という枠を超えて、主の愛は一人ひとりに注がれていることを覚え感謝します。
Posted on 04/01/2018 at 23:24, by matsumoto
本主日のイースター礼拝は、意義深い礼拝となりました。
それは、本主日の聖餐式(いとすぎ教会では「聖さんの時」という呼称にしています)にまつわる一連の出来事でした。
いとすぎ教会の聖餐式では、イエス様のひとつの身体を皆で分かち合うという意味を込めて、一つのガラス製のティーカップに入れたぶどうジュース(百パーセント果汁)を、オリーブの木でできた小さなカップ(イスラエルで購入したもの)に注ぎ分け分けます。それを礼拝に出席している方(聖餐を希望する方)に配って、聖餐のことばを司式者が告げます。
そのティーカップからオリーブのカップに注ぐぶどうジュースが、私の眼には何故か今日は本物のイエス様の血そのものに見えたことがまず第一のことです。
その後、ぶどうジュースを注ぎ分けたカップを礼拝参加者に配り、最後に残ったカップが司式者(すなわち私)のカップになるのですが、それを手に取り、「これは私たちのために主が十字架にお掛かりになり、流された血潮です…」と、聖餐のことばを語り出したとき、そのカップの裂け目から血が流れ出すように、ポタポタとぶどうジュースが滴り落ちたのです。
まさにこの時、十字架に掛かられたイエス様の脇腹から血が滴り落ちる様を、目の当たりにしたようなリアリティを感じました。
礼拝が終わってから、「僕の手に取ったカップが割れていて、ぶどうジュースが漏れてたよ」と、妻に報告したところ、(次回の聖餐式でそのカップを手にした方の服にしみがついたりしてはいけないと思ってのことと思いますが、)すぐにごみ箱に捨てました。
あとで、聖餐式でのことを妻に詳しく話をすると、「もう一度、水を入れて漏れるか確認してみよう」ということになり、ごみ箱から再び取り上げ、水を入れてみると、裂け目から水が滴り落ちました。
これは、イエス様が十字架から取り降ろされた後、墓に葬られ、陰府に降り、3日目によみがえられ、生命の水、すなわち永遠の生命を与えられた事を追体験させてくださった出来事だったのだと確信させられました。
今日のイースター礼拝の一連の出来事を通して、復活の主イエス様ご自身が働かれ、確かに、今日、そして永遠に私たちとともに生きておられることを証ししてくださったのだと確信しています。
復活の主に栄光がありますように。
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