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Posted on 09/01/2024 at 21:34, by matsumoto

『主の真実の愛によって生きる』(新約に引用されている旧約 その101)(2024.9.1)

見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。/しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク2章4節) /なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1章17節他、ガラテヤ3:11、ヘブル10:38)

◆はじめに…先週、神学校の新約学講師だった瀬戸毅義先生が一冊の本を送ってくださいました。それは内村鑑三の著した『基督者のなぐさめ』を先生が改版して発行したものでした。還暦を過ぎた今、改めて読み返してみると、ひと言ひと言が心に沁み込んで来ます。最初の章に次のような件(くだり)があります。「神もし神なれば、何ゆえに余の祈祷を聞かざりや。神は自然の法則に勝つあたわざるか。あるいは祈祷は無益なるものなるか。あるいは余の祈祷に熱心足らざりしか。あるいは余の罪深きゆえに聞かれざりしか(…)」と。

◆ハバククの嘆きの訴え…ところで今日のテキストのハバクク書の著者ハバククの名の意味は“神に抱かれる者”です。ハバククの両親が主から愛され、主を信頼し、そして自分たち同様に主が息子を愛して下さり、その愛に息子が信頼して歩んでくれることを願ってその名を付けたのでしょう。事実、ハバククはその名の通りに成長したゆえに、ハバクク書冒頭にある嘆きのことばを率直に主にぶつけました。「助けを求めているのに、いつまで聞いて下さらないのですか! 叫んでいるのに救って下さらないのですか!」(ハバクク1章2節参照)と。それに対して主は答え、「カルデヤ人(バビロン)を起こす。」(同6節)と。しかしこれはハバククにとっては、不本意なことでした。「何で、カルデヤ人の暴虐を見過ごし、黙っておられるのですか!」(同13節)と嘆いています。私たちも同様です。祈りと願いが聞かれず、状況が自分の思いと違った(理解できない)不都合な方向に傾いていくとき、疑念と不満が募り主に嘆きます。

◆信仰義認…冒頭、内村鑑三の、祈りが聞かれない嘆きを記しましたが、続けて鑑三は次のように語っています。「余は余の愛する者の失せしより数か月間、(…)神なき人となり、恨みをもって膳に向い、涙をもって寝床に就き、祈らぬ人となるに至れり(…)汝は余が祈らざる故に捨てざりしなり。否、余が祈り時にまさりて、汝は余を恵みたり。余、祈り得る時は、汝の特別の恵みと慰めを要せず。余、祈る能(あた)わざる時、余は汝の擁護を要する最も切なり(…)余が宇宙の漂流者となりし時、その時こそ、汝が無限の愛を余に示し、余が汝を捨てんとする時、汝は余の後を追い、汝を離れ得ざらしむ」と。

◆結び…主は私たちが祈ることも出来ない困難な状況にある時、私たちを抱いておられます。義と認められた私たちはイエス様の真実の愛によって生きるのです。

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