Posted on 07/22/2018 at 21:23, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『宮清め』(イエス・キリストの生涯 その28)(2018.7.22)

 

それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。(ヨハネ2章13-22節)

  • はじめに…問題や出来事の渦中にある時には分からない(見えない)事も、時が経って、その意味を理解する事ができるようになりま す。宮の商売人たちへの怒りの言動、またそれを見ていたユダヤ人たちの質問に対するイエス様の返答、このただ中にいた弟子たちは、イエス様の十字架と復活を見た後に、この出来事や対話の意味を悟り、理解しました。私たちはさらにその後、将来の聖書の約束を見てはいませんが、知っています。それは死んだ者のように生きる人生ではなく、永遠のいのちを得た者として生きる人生です。怒ってでも気づかせようとするイエス様の必死の愛を受けとる人生です。
  • 聖書の預言の実現…イエス様が神殿に行かれたことは、マラキ書3章1-3節で語られていました。また弟子たちが聖書を想い起したのは詩篇69篇9節でした。ここでは礼拝は見せかけや形ではなく真実なものでなければならないこと、また、信仰のない者に迫害を受ける、まさにメシア・イエス様の姿が語られています。宮で商売をしている人、またそれを買う人、そして商売をするための場所代を取っている祭司長やその家族、それらの人々の心に対してイエス様は怒りを表わされました。真実な礼拝は形ではなく心です(ヨハネ4章24節)。私たちが捧げるものは死んだ動物ではなく、生きておられ愛して下さる主の愛を受けとる心です。
  • ユダヤ人の求めるもの…宮で大暴れしているイエス様に「そのような事をするからには、それなりの権威を持っているのか、それを見せてみろ」と詰め寄ります。それに対してイエス様は、たとえを用いてご自身の十字架と復活を語られます。しかし誰も、そのたとえの意味を理解できませんでした。弟子たちもまた同じでしたが、この後、実際にイエス様の十字架と復活を体験し、理解しました。
  • 結び…イエス様の怒りの言動に戸惑う人もいるかも知れません。しかし形だけで心のない礼拝(生活)、そこにはいのちがありません。イエス様は、いのちを与えるために、私たち一人ひとりを訪ねて来て下さいました。「生きよ」と叫ばれます。イエス様の宮での怒り、それは死んだ者(心)を生かそうとする必死の愛の姿です。

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