Posted on 03/24/2019 at 11:58, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『ゲッセマネの苦祷』(イエス・キリストの生涯 その58)(2019.3.24)

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。(ルカ福音書22章42-43節)

  • はじめに…先週、春分の日の21日、東京ドームで行なわれた試合の後、イチロー選手が現役引退を発表しました。その記者会見で語られる一言ひとことに、イチロー選手の人生に対するひたむきさや、他者に対するいたわりが染み出て来るように感じた方は多かったのではないでしょうか? イチロー選手の次なる舞台を期待します。
  • いつもの場所…イチロー選手は、オフの時にはいつも神戸の球場で、大リーグでのプレーの準備をしていたそうです。「寒い時期に練習するので、凹むんですよね。やっぱ心折れるんですよ。でもそんなときも、いつも仲間に支えられてやってきた」。イエス様もオリーブ山のふもとの「いつもの場所」(ルカ22章40節)に弟子たちとやって来て、祈りました。このゲツセマネの祈りは、苦しみもだえる祈り、まさしく“苦祷”でした(同44節)。弟子たちと共に支え合い祈り込むはずが、弟子たちは眠り込んでいました。ゆえにイエス様の祈りは弟子たちの全存在を背負っての祈りになりました。
  • ゲツセマネ…まさにそれはゲツセマネ(=油搾り)の祈りでした。当時のイスラエルではオリーブの実を4回に分けて搾りました。それぞれ①メノラー、王、祭司の任職用、②食用、③ランプ、化粧品、薬用、④石けんに用いられました。そして最後の残った搾りかすは、燃料として使い、百パーセント使い切りました。完全燃焼したのです。イエス様はゲツセマネの祈りによって祈り切り、焼き尽くす捧げものとして十字架への道を歩まれ、十字架の死をその身によって成し遂げられたのです。それは人の力では成し遂げられません。御使いの霊的な力づけがあって実現します。この「力づける」という言葉はヘブル語で「ハザク」、これが固有名詞になると“ヒゼキヤ”になります。「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」(Ⅱ列王記18章5節)と記されている南ユダの王です。「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた」(同20章2-3節)とあるように、祈りの人でした。
  • 結び…イエス様は全人類の救いのために、人としてゲツセマネで祈り尽くされました。この瞬間もイエス様は私たちを包み込んで執り成しの祈りをしてくださっています。祈りは死の壁を超えます。

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