Posted on 05/06/2020 at 19:16, by matsumoto
イギリスの著名な歴史学者でアーノルド・トインビーという人がおりますが、年頭にあたって書いた論文の中でこういうことを言っている。
大人にしろ、青年にしろ、人間は何のために生きるべきなのか。人間の役に立つことをするために、というのはその一つだが私はそのほかに別の目的があると思う。私は宇宙の現象の中およびその背後にある究極的な精神の実在、それが如何なるものであろうとも、そういう究極的な精神の実在に自分を調和させるように一人一人が努力しなければならないと信じている。言いかえるならば私は人間には宗教的なものが必要であると信じている。
そう申しております。これが歴史学を窮めた学者の見解であります。トインビーは伝統的教派的な意味における信者ではないようですから、彼がこの説を唱えているのは歴史学者としての学問的結論といってよろしいかと思います。
私は勿論、歴史学の専門家ではありません。しかし、かつて旧約聖書の創世記をはじめて通読した時に、今、トインビーが述べていたのと極めて近い感想を抱いたことを思い起こします。創世記には幾世代にもわたる民族の歴史が書かれておりますが、それは単なる事実の羅列ではなく、そこに一貫して流れる絶対者の意志というものが書かれています。すなわち、絶対者の意志によって、人間の一つの世代から他の世代へと時代が移って行っている。そして、どんなに強い人間でも、絶対者の意志にそわなかった者は歴史における単なるフラクチュエーション(動揺、ふらつき)として、枝葉として、後代に残る本流からは外れていっている。どんなに弱い者であっても、神の欲したもうたその流れに沿うておる者は歴史の本流としてたてられていっている。そういう感想を持ちました。
そう思って読んでみますと、聖書というのは大変古い書物でありますが、我々が今問題にしてきたようなこと、また歴史学が基本的な問題として提起している事柄に関していえば、そういう問題をきわめて明確に意識し、これに対して思い切った答を与えている書物であることが分かります。
歴史学者が宇宙的な意志、絶対的な意志と呼んだものを、聖書においては「唯一の真(まこと)の神」という言葉で呼んでいます。歴史の底に絶対者の意志が一貫性を持って流れているということを、聖書においては歴史は神の経綸の展開である、そういう言葉で表現しております。「経綸」という言葉の原語はオイコノミアですが、今日の言葉でいえばエコノミー、経済とか、経営とか、家の仕末とかそういう意味あいの言葉であります。すなわち、歴史の底には神の計画と予定が一本貫いて流れているというのが聖書の考え方であります。
人間の行動や自然的な出来事はきわめて多様性に満ちておりますが、長い目で見ると、事の成り行きは瞬間的な出来事や目先の意図とは必ずしも一致しないところの「神の意志」というものが歴史を貫いている。しからば神の意志とは何であるか。神の意志の内容は何であるか。歴史の経綸の目的は何であるか。これは形式論を越えた重大問題でありますが、聖書にしたがえば、人間にとって必ずしも理解し難い事柄ではありません。それは、罪に囚われた人間を救い主イエスを信ずるという道よって解放し、救うという事実から出発しています。しかし、救いは個々の人間にとどまるのではありません。そこがすべてのことの出発点ではありますが、さらに進んで、救われた人間の営む歴史の究極的目標として、「神の国」という考えが聖書にあらわれております。信仰によって救われた人々が相寄って「神の国」という理想の社会を営む、そしてこの「神の国」を完成するということが聖書における神の経綸の最終目的であります。そういう明確な恩恵の意図を持って神は歴史を導いておられる。
歴史の段階的発展ということを申しましたけれども、これに関する言葉として聖書には「クリシス(審き)」という言葉があります。今日でもクライシス(危機)という言葉になって残っております。歴史を区分する時代、それをアイオーン(世代)と申しますが、古い時代から新しい時代に移っていく際に、必ずしも漸次的連続的に移行するわけではなく、きびしい選別が短時間に行われることがある。不要な古い要素が捨てられて新しいものが急激に現れる、激変の起こる場合があります。これを聖書では「審き」とよんでいるのです。
神が歴史を導く目的は最後の審判をへて神の国を完成することにありますが、神はその終極的な目標の実現に対して決してせっかちではあり給わない。忍耐を持って歴史を導いておられます。それ故に、歴史には小規模の上り下り、言いかえれば小規模の「審き」ということが繰り返し現れてくる。そういう意味で時代が画されていくのであります。
こうして、歴史には大きな波が出現するのですが、その無気味な大変動に直面した時、小さい人間はしばしばどうしていいか分からないということになります。もし、頼るべきものは自己の存在以外にないということであれば、あるいは一人よがりの楽観論によって人を欺く者があらわれたり、あるいは悲観的絶望的な自己激励と反抗に身を亡ぼす、というように右往左往する事態が発生するのであります。けれども、神を信ずる者、その恩恵と意志とを知って自らの心、自らの意志を神の意志に一致せしむる者にとって絶望ということはありません。たとえ歴史の展開が下り坂にあると判断されるような時点においても、彼は神の経綸を信じて立つことができます。立つことができるだけではありません。神は目覚めた人間をオイコノモス(家司)、すなわち、「歴史の経営をあずかる者」として選び、これに歴史進行の責任をお委ねになるのです。これが聖書の説くところの歴史観、歴史における人間の役割の概略であります。(矢内原忠雄記念講演 一九七〇年二月八日 京都会館別館。『おとずれ』45号 一九七〇年五月)
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