Posted on 11/15/2020 at 22:31, by matsumoto
私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。(テモテへの手紙第1 6章13節)
- はじめに…先週、思いがけないことが三つありました。一つ目は、津田一郎先生(中部大学教授・北海道大学名誉教授/数理科学・カオス学)から『富田和久講演集』(全四巻)を頂いたこと、二つ目は、壱岐の友人から近況の電話があったこと、三つ目は、岐阜県御嵩町の郷土史研究家の渡辺正司さんから連絡があったことです。向こう側からやって来る出来事、自力や努力の結果ではなく、一方的な恵みの出来事です。
- 恵み…テモテへの手紙第一を継続して学んで、今日は、その最終章です。その最後でパウロは「恵みが、あなたがたとともにありますように」(①テモテ6章21節)で締めくくっています。“恵み”は聖書、あるいは信仰生活にとって最も重要な概念のひとつです。新改訳2017で検索すると380カ所ヒットします。聖書の語る“恵み(カリス)”とは、罪の奴隷状態(重荷)から解放されて新たな道が啓かれることです。それはイエス様が十字架の贖いの死によって私たちに新たないのち(永遠のいのち)が与えられることです。これは天地創造の父なる神が、ご自身の自由によって、価なしに、見返りなしに、一方的に私たちに惜しみなく与えられる愛の贈り物です。不合理の中、絶望せざるを得ないような状態の中にあっても、希望と喜びを見出すことができる“いのち”です。
- 与える神、あかしされたイエス…全能の父なる神は、私たち一人ひとりに“いのち”(超自然的生命=霊的生命)を与えてくださっています。それは主の創造されたすべての物を、喜んで分かち合い、ともに楽しむようにという父なる神の、私たちに対する愛の源なる親心です。すべては主からの贈り物であり、恵みです。その極みがイエス様です。イエス様はその“いのち”を生き切ったのです。ご自身のいのちと引き換えに、罪に縛られていた(自力ではどうすることもできない)私たち一人ひとりを解放して自由にしてくださいました。そのイエス様の尊いいのちに覆われていることを体験して、生活のあらゆる場面でそのことを証しして、希望と愛を分かち合って生きること、それが私たちのミッションであり、生きがいです。
- 結び…主の恵みが、皆さんお一人ひとりの上にあります。主が与えてくださったいのちを生きるとき、主から頂いた恵みを豊かに分かち合うとき、天に宝が積み上げられ、重みで天井が抜けるように一瞬にして主の栄光に包まれるときが訪れることを信じます。
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