Posted on 01/10/2021 at 17:38, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『使徒信条(その5)』(イエス・キリストの生涯 その142)(2021.1.10)

死にて葬られ、陰府(よみ)に降り、 (ヨハネ19章38-42節、マタイ27章57-60節、マルコ15章43-46節、ルカ23章50-53節参照)

  • はじめに…私たちは、親しい人の死に際して、その人が生前に大切にしていた眼鏡だったり、帽子だったり、お気に入りの服などの遺品や、好きだったお花などを棺に納めます。しかしコロナ禍の今、そのような弔いが出来ない方々(あるいは受けられない方々)も多くいらっしゃると思います。しかし、そのような方々にイエス様は寄り添っておられると信じています。
  • 人として死なれたイエス様…昨年から使徒信条を学んでいますが、今年も継続して学びます。本主日は「死にて葬られ、陰府(よみ)に降り」です。なぜ人として自明のことである“死ぬ”ということを、ことさら信条として告白するのでしょうか? かつて愛娘ルツ子の死に際して内村鑑三が友人に宛てた手紙に「娘の死状誠に美しく、是れ死には無之、transition(移行)に有之候、(…)是れcreed(信条)には無之、fact(事実)に有之候」と書き記しています。このことから思うに、イエス様の死を目の当たりにした使徒たちにとって、イエス様の死は、信条として告白してもし尽されない、絶対的な事実だったでしょう。
  • アリマタヤのヨセフ…イエス様の死は、人生を刷新する出来事でした。人の目(ユダヤ人)を恐れてイエス様の弟子であることを隠していたサンヘドリンの議員だったアリマタヤのヨセフ。ピラトに十字架のイエス様のからだの取り降ろしを願い、自分の新しい墓に納めたのです。議員の立場やその保身のこだわりから解放されました。
  • ニコデモ…もう一人の議員、かつて夜、こっそりイエス様のところへ訪ねたニコデモ。人目を憚らず没薬とアロエを混ぜ合わせたものを用意し、イエスのからだを取って、亜麻布で巻きました。まさに“新しく生まれた人”となったのです(ヨハネ3章1-16節参照)
  • 神の子として生きる…イエス様の死は、私たちの人生を新しくします。私たちを神の子として生きる者とします。人生、やり直すことに遅すぎるということはありません。イエス様はおっしゃいました。「死んでも生きる」と。十字架でイエスは父なる神に願われました。「彼らを赦してください」と。私たちは罪多き者です。しかし罪赦されて生きる者です。赦されて生きる者は神の子です。その人生は、死に際しても、死んだ後もイエス様が共に居てくださいます。
  • 結び…罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです(ローマ6章23節)

《追記》

zoom参加を希望される方は、事前に電話連絡後、主日礼拝当日の10時15分-25分の間に

ミーティングID: 619 286 4474

パスコード: 3D3M69

でアクセスしてください。

※注意事項

①礼拝時はホストから参加者のマイクをミュート設定にします(ミュートにしないとハウリングして音声が聞き取りにくい場合があるためです。礼拝後はミュート設定を解除します)

②イヤホンを使用すると音声が聞き取りやすい場合があります

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