Posted on 10/03/2021 at 09:12, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『罪の贖いと派遣』(イエス・キリストの生涯 その179)(2021.10.3)

すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』」(イザヤ書6章9節)

  • はじめに…先週「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」がテレビで放映されていました。印象的だったのは最後の舞台であるペトラ遺跡(ボツラ)での父が子に語ったことばでした。地震で裂けてできた底なしの谷底へ落ちかかっている聖杯を取ろうとする子(自らも谷底へ転落しかかっている)に「あきらめなさい」。別のことばで言うならば「手放しなさい」でしょう。私たちも愛着のある物や自己本位な目的やビジョンなど私利私欲がありますが、それらを手放し、他者のことばに隠された真理を選び取る場面があると思います。
  • ウジヤが死んだ年…さて本主日のテキスト、イザヤ書6章の冒頭に「ウジヤ王が死んだ年」とあります。歴史的には紀元前742年です。ウジヤ王は16歳で王として立てられていますが、最初「アザルヤ」と呼ばれています。そのウジヤ王は、聖別された祭司の務めの香をたき、その越権が原因で病(ツァラアト/らい病)に罹り、隔離生活の後、亡くなりました(歴代誌第二26章18、21節)。聖書はそれを「心の高ぶり」(同16節)と記しています。その年にイザヤは幻を見、主の召命を受けたのです。
  • くちびるの汚れた者…幻を見たイザヤは「ああ、私は、もうだめだ」「私はくちびるの汚れた者」(イザヤ書6章5節)だと、絶望しています。その幻は主を賛美するセラフィムでした。語源はサーラフ=燃える、で転じてセラフィム=天使、または、へび、まむしを指す語となりました。しかも“香をたく”ということも同根の語です。天使セラフィムのくちびるはまったく聖いくちびるでした。しかもその姿は主を畏敬し(顔をおおい)、謙遜で(足をおおい)、かつ自由(飛んでいた)でした。その幻を目の当たりにしたイザヤは自らのこころの在り様を自覚させられたのです。しかしそのイザヤのもとにセラフィムの方から飛んできて、燃えさかる炭をイザヤの口に当て、不義を除き、罪を贖われ、そして召命を受けたのです。「だれを遣わそう」(同8節)
  • 悟るな、知るな…主の召しに「私を遣わしてください」(同上)と応じたイザヤの語るべき内容は「『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』」(同9節)でした。それは聞きたいことだけを聞き、見たいものだけを見ようとする、私たちを含むすべての人間の自分本位の在り方に抗うみことばの奥義、御業の預言でした。それは悟りがたく、知りがたいものでした。
  • 結び…悟りがたく、知りがたい、御国の奥義を、イエス様がたとえ話と自らの生き様を通して、頑なな私たちに顕して下さったのです。

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