Posted on 10/17/2021 at 09:24, by matsumoto
万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。(イザヤ書8章13、14a節/ペテロの手紙第一3章15節参照)
- はじめに…数か月前に自宅裏庭にDIYでフェンスを作製設置したことをお話しました。最初は野良猫ちゃんの侵入防止が主たる目的でした。その後倉庫キットを購入し設置、敷地にレンガ、玉石、人工芝を敷き詰め、鉢植えの花壇を造りました。思いの外、良い出来栄えで、今では我が家の憩いの空間“聖域、聖所”になり、私たちの心を和ませてくれています。ある大学での実験で、室内から外の庭を眺めるときに発生する脳波(α波)を計測した数値から、リラックス効果が得られたことが書かれた論文を読んだことがあります。バックヤードセラピーとも言うべき癒しの方法が一般化するのではと思います。
- 聖なる方…ちなみに「新日本聖書刊行会」の聖句検索で「聖所」を検索すると194カ所(内、至聖所は18カ所)ヒットします。「聖なる方」は43カ所で、内25カ所はイザヤ書です。イザヤにとって「聖」(ヘブル語で「カディッシュ」)は特別に重要なキーワードだと言えます。聖なる方を恐れ(畏怖し)、おののくとき、聖所となられる、そうイザヤは主のことばを語っています。聖所は幕屋です。最初の幕屋建造を、主はモーセに命じました(出エジプト25章8節)。幕屋の目的は、創造の主が人と出会い、人の内に住むことでした。出会いの方法は捧げものと祈りでした。モーセは個人的に他の人々に先立って、すでにホレブの山中で燃える柴を通して主と出会いの体験をしました(出エジプト3章4節)。その場は「聖なる地」で、圧倒的な主の臨在の前にひれ伏し顔を隠さざるを得ませんでした。この体験の後、イスラエル人をエジプトから連れ出す使命を得たのです(同10節)。
- 苦難と苦悩の中で…イザヤはアッシリヤ軍の進軍による不安、動揺する南ユダの国難の文脈の中で、人に恐れおののくのではなく「聖なる方」を畏れることを語っています。このイザヤ書の箇所をペテロは、異教社会の中で敵視され反論、誤解されている、離散したキリスト者に向けて記した手紙に引用しています(②ペテロ3章14、15節)。しかもこのイザヤ書が引用されているこの箇所は、イエス様の「聖なる方」としての絶対的な主権の文脈で語られています(同18-22節)。主の絶対的な主権は“聖なる愛”に他なりません。貧しい者、傷んだ者を見捨てない生き方(インマヌエル)を通してイエス様は聖なる愛を行なわれました。
- 結び…主イエス様の愛によって、新しい人生を一歩、歩み出せますように。
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