Posted on 11/21/2021 at 18:30, by matsumoto
わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。(イザヤ書22章22節) また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。(ヨハネ黙示録3章7節)
- はじめに…サイクルポートを手作りしてほぼイメージ通りに出来上がりました。木材を購入し、ペンキを塗って、寸法通りにのこぎりで切り、ビスや釘をドライバーやハンマーで打ち付けて組み立てていきます。時々、ビスが空回りしたり、釘が曲がったりして木材をしっかり固定できないということもあります。そんな時は、ビスをねじ込む場所を変え、曲がった釘を新しい釘に替え、しっかり固定し直します。あとは若干の装飾と補強をして終了です。
- 執事(書記)シェブナ…イザヤ22章には王の補佐役二人が出てきます。一人はシェブナ。名の意味は「主よ、帰りたまえ」。それとは裏腹に、分を越え自分勝手な振る舞いをしていたことに対する皮肉をもって“ますらお(【益荒男】立派な男、勇気ある強い男)”と呼ばれています(17節)。権力の座に就くと人間は高慢になるのは世の常だということでしょうか。
- 宮内長官エルヤキム…もう一人はエルヤキム。「神は確立したもう」。②列王記18章18節に“宮内長官”と役職が記されてあります。シェブナ失脚後に王に次ぐ権威を授けられ、「ダビデの家のかぎ」を与えられ、「釘」として確かな場所に打ち込まれると預言されています(22、23節)。そして「父の家のすべての栄光がかけられる」(24節)とも。絶大な権威、権力を手中にしたのです。しかし主によって盤石の地位を与えられると主を忘れ、みこころを脇に置いて自らの思いで事を動かすことに。また周囲の人々も、おもねるようになり、結局自らの首を絞め、没落の道をたどり、バビロン捕囚へと歴史が動いていくことに。そのことをイザヤは憤りと涙をもって預言しました。
- フィラデルティヤ教会…ヨハネ黙示録3章7節で「ダビデのかぎ」がイザヤ書22章から引用されています。ただ、その「ダビデのかぎ」を持っている方は、聖なる方、真実なる方、つまり持ち主はイエス様です。そしてフィラデルフィヤ教会の信徒は、「少しばかりの力」、微力だったのです。しかし微力ゆえに主に信頼し、忍耐したことを主が評価し、将来を約束しています。
- 結び…たとえ微力、無力であっても、「ダビデのかぎ」を持っている方、イエス様に信頼する者を、主は困難から守って下さいます。そして新しいエルサレム、天の御国に招いて下さいます。
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