Posted on 01/23/2022 at 20:11, by matsumoto
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす(イザヤ書42章3節)/彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは(マタイ12章20節)
- はじめに…昨年の九月から下の孫の学習はホームスクールで行なっていますが、先々週から、月2~3回のペースでチャーチスクールに通うようになりました。私が子どもの頃は、学校へ行かず、家や他の場所という選択肢はありませんでした。親の考え、あるいは世間の物差しで子どもの生活を規定し、その枠に当てはまらない場合は、不登校児、怠け者、落ちこぼれ、不良というレッテルを貼られました。
- わたしのしもべ(=子)…イザヤ書42章は、主と人間(ユダヤの民と異邦人、そして私たち)との関係について記されてあります。ユダヤ人も異邦人も、現実を見ると出来の悪いしもべです。ユダヤ人は主に信頼せず他国や自分自身の力に頼り、異邦人は主を知りませんでした。しかし主は、そんな私たちを「わたしのしもべ(あるいは子)」と呼んでくださいます。
- 葦(あし)…今日のテキストに「いたんだ葦を折ることもなく」とあります。たいてい「もっとも弱いものに対する優しさ、思いやりの心」という意味で解釈されるところです。その根拠を二つの側面から観ることができます。ひとつは言葉の持つ原意としての側面です。“葦”は原語のヘブル語で“カーネー”です。そしてギリシャ語では“カノン”になりますが、それは“正典”、という意味で使われますが“基準、律法”です。もうひとつは、マタイでの引用の文脈です。「いたんだ葦を折ることもなく」(マタイ12章20節) の前の文脈を観ると、イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたり、イエス様がいやしを行ない、律法の専門家であるパリサイ人たちが律法違反ではないかと問うています。その心は、イエス様をおとしめようとする悪意に満ちてのことです。律法のその本質は人を生かすためであり、主との関係を真っ直ぐにするものです。イエス様をおっしゃいました。「人の子(わたし)は安息日の主だ」(マタイ12章8節)。イエス様は、律法は縛ったり、殺したりするものではなく、解放するものだ、そして主ご自身が“真実なる葦”(まことの律法、律法を超える律法=福音)だということを、生活のなかで身をもって顕されたのです。
- 結び…安息日の主、律法の完成者であるイエス様のみことばに生かされ、照らされて祝福と恵みのなかで過ごすことが出来ることを感謝します。
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