Posted on 03/27/2022 at 14:43, by matsumoto

主日礼拝メッセージ要約『わたしの家はすべての民の祈りの家』(イエス・キリストの生涯 その205) (2022.3.27)

わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ書56章7節)/ そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(マルコ11章17節)

  • はじめに…先週、壱岐の島の最南端の野で祈ってきました。そこで感じたのは、主は、祈りの中におられる、主のおられるところに祈りがある、ということでした。そして祈りには喜びと力があるということでした。
  • 宮きよめ…今日のテキストはイザヤ書56章です。いわゆる「第三イザヤ」と呼ばれる区分の最初です。バビロン捕囚から解放されて後、都エルサレム(神殿)の再建と回復の時期が背景にあります。イエス様はこの箇所を、十字架、復活の一週間前の“宮きよめ”の場面で引用しました。どちらの時代も神殿祭儀を中心とした律法主義によって、指導者層は利をむさぼり、腐敗し、一方で民衆、とくに貧しく弱い立場にある者、外国人、障がいを負った者は、虐げられ、排除され、搾取される構造になっていました。しかしイエス様は真の律法、すなわち福音をイエス様は告げ、体現されました。
  • すべての民の祈りの家…「わたしの家はすべての民の祈りの家と呼ばれる」とイエス様は宣言されました。「家」は建物でもなく、出自や家系、家柄でもなく、イエス様との親しい交わりの場です。そこには何の分け隔てもありません。聖書に記されている虐げられている、いわゆる“罪人”のレッテルを貼られている取税人、遊女、また外国人(異邦人)、宦官等々、そして私たち一人ひとり、さらに私たちが受け入れられないと考えている人々、誰一人としてイエス様との親しい交わりの機会(祈り)から締め出されている者はありません。
  • 結び…ベツレヘム(パンの家)で生まれ、ベタニヤ(柔和な家)でラザロを生き返らせたイエス様が、ご自身の家であるベテピラ(祈りの家)で贖いとなられるために過越祭に宮へ入られたのです。イエス様は二度、宮きよめを行っています。最初の宮きよめの後、ニコデモに「人の子も上げられなければならなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(ヨハネ3章14-15節)と語られました。すべての民の「祈りの家」は、一人として滅びることのない、イエス様の愛に満ちた家庭です。

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