Posted on 04/10/2022 at 15:51, by matsumoto
主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身におおわれた(イザヤ書59章17節)/ (…)胸には正義の胸当てを着け、(…)救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい(エペソ6章14-17節)
- はじめに…今週から「受難週」に入ります。イエス様が十字架へ向けて歩まれた一週間です。それは十字架の死ですべてが終わるのではなく、大どんでん返し、一発逆転の始まりです。それゆえに私たちは「死」で終わりではなく、「死」の乗り越える希望を抱き、困難な今を生き抜く力が与えられるのです。
- 恩師の死…4月1日に私たちの恩師である李天秀牧師が天に召されました。私たちが韓国にいるときに古希(70歳)のお祝いを“トルチャンチ”(1歳の誕生祝い)と言って盛大なお祝いをしました。そんな先生でしたから、召天された日は、しめやかに葬儀を営むのではなく、“新生”の喜ばしい日としてお祝いの席にするのがふさわしいと思います。イエス様の御腕に抱かれて、主の愛で満ち足りた思いでいっぱいでしょう。
- 救いのかぶと…敬虔なユダヤ人は、聖書に記されてある記章=テフリンと呼ばれる革製の小箱を頭つけて祈ります。その中には、羊皮紙に記されたみことば(申命記6:4-8、申命記11:13-21、出エジプト記13:1-10、出エジプト記13:11-16)が入っています。いわゆる「シェマの朗誦」と呼ばれる箇所のみことばで、イエス様もその申命記のみことばと、関連する箇所を度々引用されました(マタイ22章37節、同4章4、7、10節他)。創造の主は、ユダヤ人が祈りの際、身に着けるテフリンを“救いのかぶと” (コバ イェシュアー)として身に着けておられる、そうイザヤは語っています。つまり創造の主の思いは、イェシュアー=イエス様への愛で満ちているのです。使徒パウロはこの箇所を当時世界最強と言われたローマ兵の武具になぞらえるようにして、引用しています(エペソ書6章11-17節)。迫害の中にあったエペソの教会の人々に、迫害する者に対する敵意ではなく、イエス様の天の父への愛、そして隣人への愛、その愛する思い、そして行動が悪魔(世の力)から完全に身を守る霊的な武器なのだ、そう励ましているのです。イエス様の愛、行動が最高潮に具体的になったのが受難の出来事ということができます(イザヤ59章19-20節)。
- 結び…『老後の保険は、イエス・キリストを着ること』と李天秀牧師はおっしゃいました。イエス様(=神の武具)を着て、隣人とともに平安の日々を過ごし与えられた地上での生涯をまっとうしたいと願います。
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